Yanase Naoki
昭和18年北海道根室生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了。英文学者。訳書にキャロル「不思議の国のアリス」、エリカ・ジョング「飛ぶのが怖い」、D。R.ホフスタッター「ゲーテル、エッシャー、バッハ」(共訳)など多数。平成3年ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」を世界で初めて完訳した。著書に「ナンセンス感覚」「英語遊び」「翻訳困りっ話」「フィネガン辛航紀―『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本」「広辞苑を読む」「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」「翻訳はいかにすべきか」など。
 必要があって George Orwell : Animal Farm を開いた。10代の終りには読んでいる本だ。実は現物がとうの昔に行方不明なので、ペーパーバックを買ってきたのである。
MR. JONES, of the Manor Farm, had locked the hen-houses for the night, but was too drunk to remember to shut the popholes.
 40年ほど前に出会っている冒頭のセンテンスの pophole が、記憶の片隅にもない。筆者の記憶力なんぞは忘却のだらけであるから、当然といえば当然。ところが収録語彙数を誇る2種類の英和辞典(CD-ROM版)に当ると、収録されていないので驚いた。
 ジーニアス英和大辞典を開くと、ちゃんとある。《pop-hole(家畜の囲いの)通行穴》。OEDやウェブスター3版のように動物専用の「通行穴」であることを明記してほしかったけれど、この辞書の「一長」を発見して嬉しい気持ちになる。「辞書はすべて一長一長」というのが筆者の持論だ。
 ジーニアス英和大辞典はジーニアス英和辞典を大きく成長させた辞典である。ジーニアス英和辞典第3版に broad bean(((米)) fave bean )とある誤植が、大辞典では fava bean と訂正されている。こういう小さな修正が辞書の信頼性に寄与する。ジーニアス英和辞典には立項されていない fava bean も立項された。ニューヨークの fava bean は東京の空豆と比較にならないほど旨い。それを知っているので、この語には特別の思い入れがある。だからこの「一長」にも嬉しくなった。
 二つの「一長」を記したついでに、誤植を一つ報告する。Hollywood の項目に《…から連される派手で低俗な…》とあるのは、明らかに「連想される」。もちろん余程の偏狭者でないかぎり、これに目くじらを立てる読者はいまい。これを報告したのは、筆者のごとき辞書好きにとってこういう発見が愉楽を与えてくれるからである。というか、ごくたまにはこういう発見をするくらい辞書を読むことを勧めたいと思う。たんに調べるために引くのではなく、むしろ無目的にあちこち拾い読みすることを勧めたいのだ。
 popholoe が収録されているのを知ってから、ジーニアス英和大辞典をしばしば開く。いわばあちこちに開かれている pophole から、ひょいと中に入るといったらよいだろうか。
 Malta の語源が《ギリシャ語 Melite.「避難所」》であるのをはじめて知った。nun の語源に《元来は男女を問わず「年長の人」》とある。どちらもおそらく他の英和にはない記述だろう。jug の語源も詳しい。《Joan, Joanna, Jenny の愛称 Jug から.「平凡な女性→主婦,台所→台所用品」の変遷過程が考えられる》。
 Benet の見覚えのある顔が目に入った。日本ではあまり知られていない作家だが、この人物の猫の短編小説を翻訳して以来、筆者には馴染みの顔。しかしジーニアス英和大辞典にある顔は米国切手だ。切手の肖像画になっているとは知らなかった。つまり、本国でのかつての知名度がよく分かる。
 特色として謳われていないけれど、切手の採用はおおいに目を引く。Cのページを開いただけでも coal car, Cobb, cog railway, Cololado(および米国全州), Conestoga wagon, cottontail, crabeater seal など、あるいは1920年代の tow truck やニュージーランドの sauropod の切手を思わずしげしげと見つめてしまう。大辞典だからこそ挿入できるわけだが、やみくもに語彙をふやすよりずっと賢明な編集方針であるのは確かだ。
 紋章の図にもこの大辞典らしさが出ている。salient, saltire, sea lion, sejant, serpent, spencelled, spectant, swan など、視覚的に理解できるのがいい。
 ところで pophole の訳語をどなたか考え出してくれませんか。「ひょいと出入り pop- 穴 hole」だから「ひょい穴」、これを一工夫すれば大英和に採用されるかもしれません。