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![]() スポーツライター 玉木正之 (たまき・まさゆき) 1952年、京都市生まれ。東京大学教育学部中退。ミニコミ出版の編集者、フリーの雑誌記者を経て、スポーツライター、音楽評論家、小説家、放送作家として多方面で活躍。国士舘大学大学院非常勤講師、鎌倉市芸術文化振興財団理事、日本財団公益事業委員会委員等も務める。主な著書に、『スポーツとは何か』(講談社現代新書)、『不思議の国の大運動会』(ちくま文庫)、『京都祇園遁走曲』(文春文庫)、『プロ野球改造プラン』(テリー伊藤との対談、カッパブックス)等がある。 |
![]() 早稲田大学教授 友添秀則 (ともぞえ・ひでのり) 1956年、大阪市生まれ。筑波大学大学院終了。香川大学教授を経て、早稲田大学人間科学部教授へ。専攻は、スポーツ倫理学およびスポーツ教育学。主な著書に『体育科教育学の探究』『スポーツ倫理を問う』(以上、大修館書店)、『スポーツをとりまく環境』(創文企画)、共訳として『スポーツ倫理学入門』(不昧堂出版)がある。 |
![]() 友添 今回のワールドカップを見ていて強く思ったことがありました。 たとえば、 スポーツの場面には 「ナショナリズムがある」 とよくいわれます。 実際にワールドカップを見に行った学生に聞いてみると、 「自分が日本人であることを自覚した」 「初めて日の丸にアイデンティティを感じた」 なんて言うんですね。 これまでは 「90分間のナショナリズム」 なんて言ってきたけれども、 どうも今回はそうではない現象、 つまり 「ニッポン、 チャチャチャ」 という大歓声の中で涙を流さんばかりにゲームと一体化して、 若者が、 自分が日本人であるとか、 日本国みたいなものに愛着を見出しているんじゃないかと思ったんですけれども、 玉木さんはいかがでしょうか。 玉木 今回のワールドカップで僕は、 スポーツ・ナショナリズムは悪ではないということを、 もっとはっきり主張してもいいんだということを感じました。 スポーツライターという仕事をしていて一番てごわいテーマが、 ナショナリズムだったんです。 僕は1952年の生まれで、 戦後のナショナリズム否定の空気を山ほど吸い、 ナショナリズムは悪であるという大前提をもっていました。 その中で、 僕自身がスポーツ・ナショナリズムをどうとらえればよいのか、 長年処理できなかったので、 いろいろ文献を調べました。 すると、 たとえばエルサルバドルのサッカー戦争なんていうものが、 実はサッカーがなくても起こっていた戦争である、 というようなことがわかってきて、 スポーツ・ナショナリズムは、 「90分間のナショナリズム」 というところで処理できるという結論に至ったんです。 ナショナリズムというのは、 基本的に敵をつくらないと成立しないんですね。 いったん敵をつくって、 その後融和する。 これがスポーツ・ナショナリズムです。 また、 いま、 あらゆるものが資本主義に支配されていて、 サッカーでいえば、 ヨーロッパのリーグが選手をたくさん集めて、 それをメディアが衛星放送で流して金儲けをしている。 そういう状況で、 ワールドカップというのは、 誤解を恐れずにいうなら、 一種のテロリズムとして存在していて、 発展途上国がテロとして資本主義に挑む、 という構図になっているところが非常に面白かった。
友添 そうですね。 観客がナショナリズムに酔いしれていることを強く感じましたね。テレビを通してみんな 「ニッポン、 チャチャチャ」 とやっている。 ところが選手たちは、 ナショナリズムなんていうんじゃなくて、 プロのプレーヤーとして自分の仕事をきっちりしているだけなんですね。 日本が負けたときに、 観客は涙を流していたけれども、 稲本にしても中田にしても宮本にしても、 もう次のステージ、 次の試合のことが頭をもたげて、 そういうことを客観的に淡々と語っていた。 昔は、 選手は国のためにプレーし、 観客も国のためにと応援する。 ところがいまは、 選手はどうも国のためじゃなくて、 ビジネスマンになって金のためにプレーして、 見ている方は、 未だに共同幻想をもっているという感じのズレが、 今回のワールドカップで特に顕著になったのじゃないかと思いました。 玉木 それは最近の特性なのか、 あるいは最近の一流選手の特性なのか、 日本のプロスポーツマンの特性なのか、 いろんなとらえ方があると思うんです。 たとえばベッカムを見ていても、 アルゼンチンに勝ったことでほとんど満足していましたね。 それ自身はナショナリズムだったかもしれないけれど、 あのナショナリズムは、 ベッカム個人の問題として考えるならば、 むしろフランス大会での因縁は抱えていたけれど、 フォークランド紛争までは抱えていなかったでしょう。 そこで、 日本の観客がナショナリズムに沸いたというときの 「ナショナリズム」 というのは一体何なのかというのを考えたときに、 これはひょっとしてナショナリズムと呼ばなくてもいいものかもしれないなと……。 友添 やっぱり 「90分間のナショナリズム」 に返ってしまうんでしょうか。 玉木 返ってしまうと思いますね。 日の丸を顔に描いて青いジャージを着て応援に行っていた人が、 日本が負けたら、 ブラジルの国旗をペイントする――これは作家の島田雅彦が言っていたことですが、 コスプレですよ。 コスプレをして、 それで 「自分は日本人としての自覚を初めてもった」 という言葉を言った若い人がいたとするならば、 それはその人の頭の中で二次的に生産されたもので、 むしろそっちの方が幻想であるという気がしますね。 幻想が悪いとは言いませんが……。 ![]() 玉木 僕は日本対ベルギー戦を見に行きましたが、 前半のあの鬱屈した45分が終わって、 後半に一点入れられて、 鈴木のシュートで追いついた瞬間、 もう取材どころじゃないですよ (笑)。 ウワァーと喜んで、 横にいたリトバルスキーと抱き合った。 リトバルスキーもウワァーと喜んでいるわけです。 問題は、 このときのリトバルスキーは日本人なのか。 三都主は日本人なのかということです。
友添 それはこれまでのナショナリズムとは違って、 もっと軽くて……。玉木 軽い/重いでいうなら、 軽いでしょうね。 これは 「遊び道具」 だと僕は思っているんです。 遊び道具の中で、 ナショナリズムは最も面白い。 スポーツをやる上で、 なぜ国対抗でやるかといったら、 面白いからでしょう。 友添 舞台装置として、 より盛り上がるということですね。 玉木 そうです。 それを 「舞台装置としてのナショナリズム」 という言い方もできるんじゃないかと思うんです。 たとえばトルコが今回は3位になりましたね。 トルコがなぜ強かったかというと、 生まれも育ちもドイツのトルコ人、 ドイツの国籍を取れない人たちがいたからです。 ドイツがフランスのような国であったならば、 ドイツ代表として出ていた人たちが、 トルコの国籍で出たでしょう。 おまけにトルコという国を考えるならば、 EUに入りたくて入りたくて、 入れなくて、 イスラム圏の国としてどうしたらいいのか、 という状況があるわけです。 一つの舞台装置として非常に面白い。 友添 いままでのオリンピックにしてもワールドカップにしても、 いろんなスポーツのイベントを考えたときに、 ネーション・ステート、 国というのがいつもナショナリズムと結びついていました。 いまはもうそういうものを無化してしまって、 もう関係なくした方がよいのかもしれませんね。 玉木 スポーツの舞台装置として楽しみやすい国境というものを、 スポーツの側から提示することができるかもしれないという期待感を、 僕はものすごくもっています。 新たな国境の中に、 クルドだのコソボだのチベットだの、 そういうところが入ってくるかもしれないし、 一度そういう国境をつくった後、 フランスのように、 今度はその国境をつぶすのもまたスポーツなんですね。 昔のネーション・ステートの発想というのは、 僕はもう捨てていいだろうと思います。 それから、 今回のワールドカップで韓国は赤一色になりましたね。 韓国は 「民族の祭典」 をやったわけです。 島田雅彦は 「北朝鮮のアリラン祭の方が、 まだ赤や黄色や青や緑があったのに、 韓国の方は赤一色で、 どっちが共産圏かわからない (笑)」 と言っていましたが、 韓国の人たちも 「こんなに勝てるのは二度とないことなんだ」 と言いながら騒ぐというくらいの醒め方をしていた、 というんですね。 友添 大衆の欲望というのが一方であって、 それをスポーツが利用しながら、 その欲望がまたスポーツに仕掛けをつくっていく。 そういう可能性が出てきたんじゃないのかと思うのですが。
玉木 ありえますね。 その中で、 ナショナリズムが舞台装置であるというのと同時に、 忘れてならないのは選手個人の問題です。 あの選手個人個人は、 確かに1試合勝つごとに安くないボーナスをもらうにしても、 それはヨーロッパでクラブからもらうお金に比べると少額であり、 あそこでケガをしたらにっちもさっちもいかない。 そういう状況の中で、 それでも彼らが必死になってプレーするモチベーションはどこにあるかと考えたとき、 さっき僕はテロリズムという言葉を使いましたが、 いまの社会を動かしているものに対する矛盾というようなものを、 選手が全部体の中にもっているような気がしました。いまヨーロッパがサッカー経済のトップにあって、 それに対して中南米、 アフリカの選手、 アジアの選手が、 世界経済に対する反発を繰り広げる場がワールドカップであるわけです。 これは舞台装置としてはすばらしい。 おまけに、 ワールドカップが生まれた歴史を考えてみても、 ユナイテッド・キングダムのフットボール・アソシエーション・カップに対して、 フランスが大英帝国に反発してつくったという歴史もあるわけですね。 すると、 政治的・経済的な世界構造の中で、 大衆がもっている欲望、 あるいは欲求不満、 それらを請け負って選手たちは動いている、 というようなものが見えてくると思うんです。 友添 そうですね。 第一次世界大戦のときでもアメリカでは、 フットボール、 バスケットボール、 ベースボールが大人気を博していました。 第二次世界大戦中も、 スポーツが大衆を巻き込んでメジャーリーグのベースボールにみんなが歓声を送っていた。 それを見ながら 「じゃあ、 いまから戦争に行ってくるぞ」 というような形でやってきた。 そういう近代スポーツが確かにあるのですが、 日本人はそういう近代スポーツというものを本当に理解して、 受容したのかという次の問題が浮かんできます。 逆に言うと、 今回のワールドカップは、 ひょっとしたら初めて日本の土壌にスポーツが馴染んだ具体的な事例になりえたのではないかということです。 スポーツは西洋のハイカラな文化だという意識を、 若い世代がうまく咀嚼したんじゃないだろうか、 と思うんです。 玉木 そこは僕はいくつか疑問があるんです。 まず問題設定として 「根づいたのか?」 という言い方がよくされますが、 これには 「根づかなければいけないのか?」 というような反論が可能だと思うんです。 根づくのがいいことで、 表層的なブームではいけないという意見が根強くありますが 「上っ面のブームのどこが悪いんだ」 という言い方もまたできると思うんです。 これについては、 また議論が必要だと思いますね。 |