漢字Q&A(その11)


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Q0501 私の住んでいる町の山車の額に書かれている「仲」という文字には、「中」の縦棒の右下に「二」の字が付け足されています。これにはどんな意味があるのでしょうか?
 このご質問には写真が添付されていましたので、まずはそれを見てみましょう。この文字からすると、なかなか雰囲気があって、由緒がありそうな山車ですね。
 さて、問題の「おひれ」が付いた「中」ですが、漢字の歴史をさかのぼっていくと、意外や意外、似たような「中」はけっこう見つかるのです。最も古い漢字とされている甲骨文字や、その次に古いとされている金文(きんぶん)などでは、おひれ付きの「中」がむしろふつうなぐらいです。
 その代表的なものをいくつか、図に示しておきますが、これは、軍旗が風にはためいているようすを表した象形文字だとされています。軍旗がはためくのは軍隊の真ん中だ、というわけで、「なか」の意味になったというのが、一般的な説明です。
 小社『大漢和辞典』にも、これらの系統を引く図のような「中」の異体字が、収録されています。おそらく、ご質問の「仲」は、これらに基づいているのでしょう。
 この「おひれ」は、現在ではもちろん装飾的な意味合いで書かれているわけですが、本来は軍旗はためくさまだったことを思い起こすと、この山車、さらに風格が増してくるように感じられるのではないでしょうか。

Q0502 「あわただしい」は、「慌ただしい」と書く場合と「慌しい」と書く場合があるようですが、どちらが正しいのでしょうか?
Google検索結果
"慌ただしい" 44万4000件
"慌しい" 57万7000件
 何はともあれ、まずはGoogleで両者を検索してみましょう。ただし、単純に「慌ただしい」と「慌しい」で検索しても、Googleは両者を同一視してしまうようなので、" "を付けてフレーズ検索してみました。結果は、表のようになりました(2007年9月28日午前9時20分時点)。
 両者の勢力はほぼ互角。手に汗握る戦いですね。この結果がどこまで実態を反映しているかは、判断のむずかしいところですが、どちらかがはるかに優勢、というような状況ではなく、両者ともに使われていることだけは、確かでしょう。
 送り仮名をどのように送るかについては、Q0046Q0080でご紹介した内閣告示「送り仮名の付け方」という決まりがあります。この中から、「あわただしい」に関係する部分を抜き出すと、に次のようになります。
通則1
本則 活用のある語(通則2を適用する語を除く。)は、活用語尾を送る。
通則2
本則 活用語尾以外の部分に他の語を含む語は、含まれている語の送り仮名の付け方によって送る。
 「あわただしい」の活用語尾は「しい」ですから、通則1に従えば「慌しい」となります。しかし、「あわただしい」の中には「あわてる」が含まれているのだと考えると、通則2を適用しなければなりません。「あわてる」は通則1に従って「慌てる」と送りますから、「あわただしい」も「慌ただしい」でなければならないことになるのです。
 「慌しい」と「慌ただしい」の違いは、これが原因です。以前は、「あわただしい」という訓読みそのものが「当用漢字音訓表」に入っていなかったこともあって、どちらを使うかの基準はありませんでした。しかし、1973年に「当用漢字音訓表」が改訂された際に「あわただしい」が収録されたのをきっかけとして、文部省作成の「文部省 公用文 送り仮名用例集」に、「慌ただしい」が採用されることになりました。その結果、現在の辞書などでは、「慌ただしい」の方が一般的になっています。
 というわけで、辞書出版社としては、最初のGoogleの検索結果で「慌しい」もかなり使われていたというのは、ちょっとショックな事実なのです。この理由は、どこにあるのでしょうか?
 パソコンで「あわただしい」と入力して変換してみると、MS-IMEでは「慌しい」「慌ただしい」の両方が出てきます。どうやら「慌しい」の応援団はこんなところにいたようです。少なくともパソコンの世界では、辞書よりも文部省よりも、マイクロソフトの方が強いのです。

Q0503 「祭」という漢字の右上の部分は、「又」なのですか?
 「祭」は、成り立ち・字源から眺めると、なかなかおもしろい漢字です。「示」は、「神」や「社」の左半分、いわゆる「しめすへん」と本来は同じもので、宗教儀礼に関係することを示しています。左上の部分は、「肉」が変形したもの。Q0023でご紹介したような、「腹」や「胸」「肺」に使われている「月(肉)」と同じです。
 ご質問にある右上の部分は、「又」に違いありません。漢字の「又」は、「取」や「受」に典型的に見られるように、本来は右手の象形です。つまり「祭」は、右手で肉を持って、神様にお供えすることを表した漢字だとされているのです。
 そのような事情もあって、手書きの場合、「祭」の右上の部分は「又」と同様に、図の左側のように赤丸の部分を突き出して書くのが一般的です。ただし、明朝体活字では事情が違って、図の右側のように、ここを突き出さない方が一般的なのです。おそらく、活字の場合には、ここを突き出すと「示」と重なりかねないのが、嫌われたのでしょう。
 これもまた、手書きと活字との間で、漢字の字体に微妙な違いがある例の1つだと言えるでしょう。これまでも、Q0029で「衣」、Q0118で「比」、Q0385で「北」などの例を紹介してきましたが、アルファベットに筆記体とブロック体があるように、漢字でも、手書きと活字は別のものだと考えた方がいいのです。

Q0504 「剥奪」の「剥」の左半分は、2種類の形を見かけるような気がするのですが、どうしてですか?
 たしかに2種類ありますね。小社『大漢和辞典』でも、図のような2つが掲載されています。
 このうち、いわゆる「正字」とされるのは、右側のものです。左側のものは、その異体字なのですが、1983年にJIS漢字が改訂された際、こちらの方が登録されたので、現在のパソコンでは、「はくだつ」と入力して変換すると、こちらの「剥」が出てくるのがふつうです。
 ところが2000年になって、国語審議会が『表外漢字字体表』を答申した際に、伝統的に「正字」とされてきた右側の字体が「印刷標準字体」として認定されました。その結果、近年の新聞などでは、こちらの字体の方が主流となってきていますし、2004年のJIS漢字の改訂では、こちらの字体も登録されるに至りました。
 とはいえ、こちらの字体が入っているのは、JIS漢字の中でもやや特殊な「第3水準」と呼ばれる領域で、Windowsの最新のOSならば表示はできるものの、まだまだ、だれもが使えるような状態には至っていません。しばらくは、「剥」の時代が続きそうですね。

Q0505 「魚へん」に「◎」を書いて「ちくわ」と読む、という話を聞いたことがありますが、これは漢字ですか? それとも単なる嘘字ですか?
 むずかしいお話ですよね、これは。
 嘘字については、Q0212で取り上げましたので、そちらをご覧いただくとして、むずかしいのは、嘘字と本当の漢字との境界線は、いったいどこにあるのか、という点です。
 文字とは、コミュニケーションの道具です。書き手の側が、「魚へん」に「◎」と書いて「ちくわ」だと思っていても、読み手がそれを理解できなければ、意味がありません。この観点からすると、多くの人に正しく読んでもらう、ということを期待できそうにないこの「ちくわ」は、文字ではない、つまり漢字でも国字でもない、ということになりそうです。
 でも、よく考えてみると、多くの人が正しくは読めない漢字なんて、いくらでもありそうです。極端な例を挙げれば、小社『大漢和辞典』に載っている図のような漢字たちは、コミュニケーションの道具としては落第だと言わざるを得ないでしょう。
 これは、小社としては困った事態であります。そこで、辞書に載っている漢字は全て漢字だ、と主張をせざるを得なくなります。実際のところ、『大漢和辞典』に収録されている漢字は、過去に作られた辞書に載っているものばかりです。自分で申し上げるのもなんですが、この主張にも、それなりのスジがあるわけです。
 では、「魚へん」に「◎」を載せている辞書があるかというと、現在のところ、『今昔文字鏡』というソフトが載せているくらいで、紙の辞書に載っているという話を聞いたことはありません。この意味でも、この「ちくわ」は、文字ではないと考えておくのがよさそうです。
 ひょっとすると、何年も何十年も先、『大漢和辞典』の改訂版が発行されたとき、これが「漢字」として収録されているような未来が、ないとも限りませんが……。

Q0506 「叩(たた)く」という漢字は、手に関係する意味なのに、どうして「手へん」ではないのですか?
 「叩」は、漢和辞典では「口へん」に分類されていることが多いのですが、意味的に重要なのは、むしろ「卩」の方です。この漢字は、甲骨文字では図のような形をしていて、人がひざまずいている姿を表したものだとされています。
 そこで、「叩」という漢字もひざまずくことに関係があって、本来は、ひざまずいて頭を地面につけることを意味していました。日本風に考えれば、土下座をしている格好をイメージすればいいでしょう。そうすると、額(ひたい)が地面にくっつきます。額のことを「ぬか」とも言うので、これを「ぬかずく」というのですが、「ぬかずく」ことは、ちょっと痛そうではあるのですが、額で地面を「たたく」ことにもなります。その結果、「叩」は「たたく」をも意味することになった、というのが一般的な説明です。
 そうすると、「口」の方はどうなるのかというと、これはいわゆる形声文字の音符で、コウという発音を表しているに過ぎないようです。その証拠に、現在ではあまり使われませんが「扣」という漢字もあって、これも音読みはコウ、「たたく」という意味を持っています。
 「たたく」という意味からすると、「叩」よりも「扣」の方がわかりやすそうなものですが、結果的に現在、定着しているのは「叩」の方。このあたりは、漢字のおもしろいところで、なんらかの事情で、「扣」よりも「叩」の方が好まれたのでしょう。人間様の勝手な好みで、漢字の運命は大きく左右されるのです。

Q0507 「郵便」や「定期便」などに使われる「便」は、どうして排泄物の意味でも使われるのですか?
 「便」の一番基本となる意味は、「支障がなくて都合がいい」だとされています。「便利」「便宜」や「簡便」といった熟語が、その代表的なものです。「交通の便がいい」なんていう言い方も、この延長線上で理解することができるでしょう。
 この漢字を「定期便」「発着便」というふうに輸送手段の意味で使うのは、そこから発展した日本独自の用法です。また、「便箋」「郵便」のように手紙の意味で使うのも、どうやら同じく日本独自の用法のようです。
 さて、問題はこの「便」がどうして排泄物の意味になるのか、ということですが、例によって残念ながら詳しいことはわかりません。この意味の「便」は、中国の古典にも用例があるようですから、日本語独特の用法というわけではなさそうです。「するりと出る」つまり「支障なく出る」からだ、という説があるにはあるのですが、常に「するりと出る」わけでもない私としては、全面的に賛成とはまいりません。ただ、出てくれないとそれはそれは「都合が悪い」わけですから、やはりこの説にもそれなりの真実があるようにも思われますね。
 ちなみに、「便」にはビンとベンの2つの音読みがあって、輸送手段や手紙の場合にはたいていビンと読み、それ以外の場合はたいていベンと読みます。しかし、「便乗」「穏便」のように、輸送手段・手紙に関係なくともビンと読む例もあります。両者の違いは、意味の違いに基づくものではないと考えた方がよさそうです。

Q0508 シーラカンスは、漢字ではどう書くのですか?
 中国語の辞書でシーラカンスを調べてみると、「空棘魚」と書いてあります。百科事典によれば、日本でも昔は、シーラカンスを分類するのに「空棘(くうきょく)類」とか「管椎(かんつい)類」といった名称を用いたことがあったようです。これらから考えますと、シーラカンスを漢字で書くとすれば、「空棘魚」となることでしょう。
 ただ、ここで疑問なのは、「空棘」ってなんだ? ということです。小社『大漢和辞典』にこの熟語は収録されていますが、意味は「いばらの茂る空しい地。荒廃すること」とあって、シーラカンスとは関係がありそうにもありません。
 調べてみると、シーラカンスとはギリシャ語で「中が空洞になった背骨」を意味するそうで、実際にこの魚の背骨は中が空洞になっているとのこと。とすると、先の「管椎」というのは、管のような脊椎という意味ですから、シーラカンスの直訳ではないかと思われます。であれば、「空棘」の方も同様に直訳なのではないでしょうか。
 ただし残念なことに、辞書をいくら調べてみても、「棘」という漢字に「背骨」の意味はありません。私はギリシャ語を全く知らないので無責任な発言になりますが、ひょっとすると、ギリシャ語のシーラカンスの方が、「中空のとげ」と訳すこともできることばなのかもしれませんね。

Q0509 「沈」や「枕」の1番最後の画は、縦に真っ直ぐ下ろすのですか、それとも少し右へずらしてから下ろすのですか?
 図の赤丸の部分をどうするか、という問題です。以前、似たようなご質問をいただいたことがありました。Q0262、「就」についてのご質問です。ただ、その際にご説明した「尤」と、今回、問題になっている図のような漢字とは、字源的には別物なので、分けて考えなくてはなりません。
 この漢字を『大漢和辞典』で調べると、音読みはイン、意味としては「行く」「おこたる」などと載っていますが、その成り立ちには例によって諸説があります。人が門から出て行く様子を表したものだとか、人が枕をして寝ている姿を表すものだとか、人が荷物をしょっている形だとか……。
 そのどれが正しいのかはともかくとして、ここで注意したいのは、どの説にも共通して「人」が出てくる、ということです。つまり、門だとか枕だとか荷物だとかいって諸説紛々となる原因は、「冖」の部分にあるのであって、これを除いた形が「人」を表しているという点では、一致しているのです。
 ということは、問題の部分は、多少、変形してはいるものの、「人」と同様に考えてよいのではないでしょうか。わざわざ少し右へずらしてから始める理由というのは、あまりないと思われます。
 ただし、以上の説明は、かなり「こじつけ」めいています。この種の細かい字形の問題は、正否を判断できるはっきりとした理由が見出せない場合には、あまりこだわってもしかたがないのです。世の中、どちらでもいいことが多いものです。びくびくしないで、のびのびと漢字を書いていただければ、と思います。

Q0510 「有」という漢字を「とも」と読むことはできますか?
 これは、子どもの名付けに関するご質問です。私は姓名判断の専門家ではなし、他人の名付けに口出しできるような、なにかえらい人間でもないので、名付けに関するご質問については、基本的にお答えしないことにしております。そこで、今回も同じ扱いにするつもりだったのですが……。
 Q0352でご説明したように、名前の場合にのみ使われる特殊な漢字の読み方を、「名乗(なのり)」と言います。源頼朝のように「朝」を「とも」と読むのも名乗ですし、徳川家光のように「光」を「みつ」と読むのも名乗です。名乗は、そこらじゅうにいっぱい転がっています。
 荒木良造編『名乗辞典』(東京堂、1959)を調べると、「有」に「とも」という名乗があることがわかります。つまり、昔から日本人は、「有」と書いて「とも」と読む名前を使ってきたのです。
 さて、ここで気になるのは、どうして「有」を「とも」と読むのか、ということです。名乗の多くは、今ではどうしてそう読むのか、わからなくなってしまっています。でも、このご質問を拝見した瞬間に、私の頭の中でひらめくものがありました。それは、『論語』の有名な一節です。
朋(とも)有り、遠方より来たる、亦(ま)た楽しからずや。
 この最初の部分を原文で書くと「有朋」となるのですが、「有」を「とも」と読むのは、この一節を踏まえたしゃれなのではないでしょうか。
 まったく無責任に珍説を披露してしまいました。でも、名乗に関して、なぜそう読むのかをいろいろ考えてみるのは、それはそれでおもしろいものなのです。

Q0511 「明」をメイと読むのを、漢音ではなく慣用音としている辞書もあるようですが、どうしてそんなことが起こるのですか?
 たしかに、そういう辞書もありますね。私がいくつか調べてみたところでは、たとえば服部宇之吉・小柳司気太『詳解漢和大字典』(1916初版)や、栄田猛猪ほか編『大字典』(1917年初版)といった、戦前を代表する漢和辞典でも、メイは慣用音とされています。
 図は、『大字典』の「明」の部分。わざと紙の色が残るようにスキャンしてみたのですが、なかなかクラッシックな雰囲気がするでしょう? それはともかく、ここでは「明」の漢音はベイとなっています。
 さて、漢音とは、8世紀ごろ、中国の都、長安で話されていた中国語の発音が元になって出来た音読みだとされています。ただし、タイムマシーンがあるわけでなし、実際に当時の発音を聞いたことがある人はいないはず。残されたさまざまな資料から推定されているにすぎず、それに基づくという漢音も、学説によって変わってくるものなのです。
 そんな学説の1つに、「呉音でナ行・マ行で始まる音は、漢音ではダ行・バ行で始まる」というものがあります。これに従うと、「明」の呉音はマ行で始まるミョウなので、漢音はバ行で始まらなくてはならないことになります。これが、この漢字の漢音がベイとされる根拠です。
 ところが、研究が進んでくると、この学説に例外があることがわかってきました。呉音でナ行・マ行で始まる場合でも、ウ・イ・ンで終わる場合には、漢音でもナ行・マ行のままとする方が、当時の長安の発音に近いらしいのです。「明」の呉音はミョウでウで終わりますから、漢音はマ行のままでよく、メイの方が正しい、ということになるのです。
 この学説が一般的になったのは、1950年代以降のことだそうです。古い漢和辞典で「明」の漢音をベイとしているのには、こういう事情があるのです。
 呉音や漢音などという分類は、実際に日本語の中で使われている音読みを、後から学問的に分類してみたに過ぎません。メイという音読みがあるのはれっきとした事実。それをどう分類するかが、学説によって変化してくるだけのことなのです。

Q0512 駐車場などで、「月極」と書いてるのを見かけますが、「月決め」と書くのは間違いですか?
 国語辞典で「つきぎめ」を調べてみると、たいていは、漢字では「月極」と書くことになっています。しかし、「つきぎめ」とは「月単位で決める」という意味ですから、「月決め」と書く方がすなおなようにも思います。それではどうして、「月極」という書き方がされているのでしょうか?
 「極」という漢字を見てすぐに思い浮かべるのは、「きわめる」という意味でしょう。たしかに、この漢字が持っている本来の意味は、「きわめる」です。しかし日本人は古くから、この漢字を「きめる、とりきめる」といった意味で用いてきました。たとえば、夏目漱石の小説『それから』の終わり近くには、主人公の次のようなセリフがあります。
「仕様がない。覚悟を極めましょう」
 これは明らかに、「きわめる」ではなく「きめる」でしょう。「つきぎめ」を「月極」と書くのは、この用法に基づいた書き方なのです。このような、漢字が中国語として持っている意味からは外れた、日本独自の用法のことを「国訓」と呼んでいます。
 ただし、『常用漢字表』では、「極」に「きめる」という訓読みは載せていませんから、学校教育では、この読み方は習いません。にもかかわらず、「月極」と書いてある駐車場が、今でもあちこちにあるのが現実です。
 私自身、子どものころ、「ゲッキョクってなに?」と親にたずねて、苦笑された思い出があります。学校で教えてくれなくても、私たちはさまざまな場面で、漢字を覚えていくものなのです。

Q0513 辞典を見ると、たとえば「諒解」は「了解」に書き換える、などと書いてあることがありますが、この「書き換え」とは何ですか?
 これは、1956(昭和31)年に国語審議会が文部大臣に報告した「『同音の漢字による書きかえ』について」という文書に基づいたものです。この文書の前文には、次のようにあります。
 当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字表以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、表中同音の別の漢字に書きかえることが考えられる。ここには、その書きかえが妥当であると認め、広く社会に用いられることを希望するものを示した。
 つまり、「諒解」の「諒」は当用漢字ではないので、代わりに音読みが同じ「了」を使って「了解」と書きましょう、ということです。この文書に挙げられた他の例をいくつか拾ってみると、たとえば「愛慾(あいよく)」は「愛欲」に、「讃美(さんび)」は「賛美」に、「日蝕(にっしょく)」は「日食」に、「編輯(へんしゅう)」は「編集」にといった具合です。
 この文書は、国語審議会の単なる報告書にすぎないのですが、辞書をはじめ、新聞や雑誌など、広く一般に参照されてきました。ことの是非はともかくとして、報告から半世紀以上が過ぎた現在では、ほとんどの「書きかえ」が市民権を得ているのが実態です。

Q0514 「異体字」とは、読み方も意味も同じで形だけが違う漢字のことを言うようですが、だとすると、異体字同士は置き換えてもかまわないのでしょうか?
 これはなかなかむずかしく、また厄介なご質問ですよ。
 読み方も意味も同じなのですから、正字異体字や、異体字同士の関係にある漢字は、原則的には置き換えが可能のはずです。たとえば、「峰」と「峯」は異体字の関係にありますが、どちらも「みね」を表していることには違いがありません。そこで、「雲の峰」と書いても「雲の峯」と書いても、どちらも同じことを表現しているはずです。
 しかし、世の中、そう単純にはまいりません。漢字にはそれぞれ、イメージのようなものがこびりついていて、同じことを表しているはずなのに、言ってみるならばニュアンスのようなレベルで、微妙な違いを持っていることがあるのです。
 たとえば、「杯」と「盃」は異体字の関係にあって、どちらも「さかずき」を表していますが、人によっては、「杯」でなければお酒を飲んだ気がしないとか、あるいはその逆だ、と言う人もいることでしょう。また、「嬢」と「娘」も本来は異体字の関係にある漢字ですが、かりに「お娘さん」と書いたとしたら、あまりセレブな感じがしないわね、と言われてしまうかもしれません。
 このニュアンスの違いが大きくなって、社会全体にもきちんと認識されるようになると、本来、異体字同士であった漢字がたもとを分かつ時がやってきます。「碁」と「棋」は本来、異体字関係にある漢字ですが、現在では「囲碁」と「将棋」として、まったく別の漢字になっています。そういう観点からすると、「嬢」と「娘」などは、分かれる寸前なのかもしれません。
 このように、ひとくちに異体字と言っても、その世界は複雑で多様です。そう簡単には一般化を許さない。――それが漢字の世界の困った点であり、また大きな魅力でもあるのです。

Q0515 新しい漢字を作って普及させることは、今からでも可能ですか?
 なかなか気宇壮大なお話ですねえ。でも、現実はキビシイと思いますよ。
 新しい漢字を作ることは、もちろん可能です。でも、それが社会一般に受け入れられて使われるようにならなければ、埋もれていくだけです。実際に使われないものを「漢字」と呼ぶことができるかどうか、むずかしいところです。
 ご存知の通り、漢字は3500年以上の歴史を持っているわけですが、1番最近、漢字がまとまって創作されたのは、19世紀、西洋文明が東洋の社会に流れ込んできた時期でしょう。たとえば「糎」(センチメートル)などという漢字は、明らかにそれ以前には存在しなかったものです。また、小社『大漢和辞典』には図のような化学元素を表す漢字がたくさん載っていますが、これらもまた同様でしょう(左から順に、ラジウム、リチウム、マグネシウム)。
 つまり、新しく創られた漢字が市民権を得ていくためには、それなりの社会的な条件が必要となるわけです。とすれば、これから新しい漢字を作って普及させていこうとするならば、社会的な状況から手を付けなくてはなりません。
 手っ取り早いのは、秘密組織でも作って武力革命を起こし、革命政府の権力を背景に新漢字を普及させる方法です。漢字新党を立ち上げて合法的に政権奪取を目指す方が穏やかなのですが、二大政党制すらなかなか実現しないお国柄、そんなことを考えていてはいつ実現するやらわかりません。
 なになに、もっと現実的な方法はないかって? だったら、秘策をお教えしましょう。なにか社会のあり方を変えてしまうような、大発明をするのです。そして、その発明に、新しい漢字で名前を付けるのです。そうすれば、その新漢字が普及することは間違いなし!
 インターネットや携帯電話だって、専用の新漢字とともに現れていれば、どうなったかわかりませんよ。でも、小社に入社して『大漢和辞典』を改訂して、その中にこっそり自作の漢字を紛れ込ませるのと、どっちが早いでしょうかねえ。

Q0516 「淡淡」や「飄飄(ひょうひょう)」など、同じ漢字をくり返してできている熟語には、ほかにどのようなものがありますか?
 これについては、以前Q0201で少し触れたことがあります。まずは、そのとき例に挙げたもの以外で、いくつかご紹介してみましょう。
 たとえば、「粛粛(しゅくしゅく)」。「問責決議案は粛粛として否決された」のように、静かでおごそかなようすを表す熟語として使われます。ただし、本来はシッシッとかシュッシュッという音を表す擬音語で、江戸時代の詩人・頼山陽(らいさんよう)の詩の有名な一句に、「鞭声(べんせい)粛粛、夜、河を過(わた)る」とあるのが、その使い方です。
 いつまでも続いてとぎれないことを表す「綿綿(めんめん)」なんていうのもあります。これは中国の唐の詩人、白楽天の『長恨歌(ちょうごんか)』の末尾に、有名な用例があります。「此の恨みは綿綿として絶える期(とき)無からん」。引き裂かれてしまった恋人たちの哀しい想いは、いつまでも消えることがない、というのです。
 ほかにも、ものさびしいようすを表す「蕭蕭(しょうしょう)」とか、漠然と広がっているようすを表す「茫茫(ぼうぼう)」など、ちょっと思い出してみただけでも、いくらでもありそうですね。
 とはいえ、この種の熟語ばかりを探し出そうとすると、国語辞典や漢和辞典を端から見ていくことになって、かなり大変な作業になりそうだなあ。――なんて、思っていたら、最近になって小学館さんから発行された小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』の付録に、まとめて載っているのを発見しました。ご興味のある方は、参考にしてみてはいかがですか?

Q0517 「燿」という漢字の右の上の部分は、「羽」でしょうか、それとも「ヨヨ」でしょうか?
 以前、Q0314では、「櫂(かい)」と「翼」という漢字に関連して、似たような問題を取り上げたことがありました。その際にご説明したのは、「羽」という漢字は旧字体では図のような形をしており、それが「翼」や「翌」なども含めて、新字体ではみな「羽」という形に変更された、ということでした。
 これだけでも十分に七面倒くさいお話ですよね。ところが、「羽」に関しては、さらに厄介なことがあるのです。それが、今回のご質問の「耀」のようなケースです。
 この漢字では、旧字体では図の左側のようだった字形が、新字体では右側のようになっています。「翼」や「翌」のように「羽」に変更されたのではなく、「ヨヨ」の形に変更されているのです。同じような漢字としては、「曜」や「濯」が挙げられます。
 つまり、「羽」の字体には、3つの形が存在することになります。1つめは私たちがふつうに使っている「羽」でこれが新字体、2つめはいわゆる旧字体、そして3つめが、「耀」や「曜」「濯」に見られる「ヨヨ」の形だというわけです。
 ただし、どれを書いても「羽」であることには変わりありません。遠目に見た場合には、だんご三兄弟のごとく(古いか?)区別の付きにくいこの3つ。漢字テストなどの場を除いて、手書きの場合は、あんまり気にすることはないと思いますよ。

Q0518 「成」の画数は、6画ですか、7画ですか?
 まあ、ためしに数えてみることにしましょうよ。そうすると、ふつうの人は6画だという結論に達することでしょう。いったいどこをどう数えれば7画になるんだろう、と首をかしげる方もいらっしゃるかもしれません。
 でも、7画の「成」も確かに実在します。というのは、この漢字は旧字体だと、微妙に字形が違っているからです。
 図の左側は、私たちがいつも使っている新字体で、右側は旧字体です。違いは、赤丸の部分。ここの横棒が突き出ているので、画数が新字体よりも1画、多くなるのです。「成」は6画か7画かという疑問は、実はここに原因があったのです。
 ちなみに「成」という漢字は、「戊」と「丁」が組み合わさってできた形声文字だと言われています。「丁」の音読みテイが、少し変化してはいるものの「成」の音読みセイを表している、というわけです。つまり、旧字体の問題の部分が右へ少し突き出ているのは「丁」の名残であって、それなりの意味がある、ということになりますね。
 それはともかく、なんともまあ、微妙な違いですね。新字体と旧字体とは、大きく字形が異なるものが多いのですが、こんなに微妙なものもあるのです。

Q0519 「たりる」を漢字で書くと「足りる」ですが、どうして「足」が「たりる」という意味になるのですか?
 漢字というものは、1文字で複数の意味を持っていることがしばしばあります。それは、3000年以上にも及ぶ長い歴史の中で生まれてきたものですから、どうしてそうなったのかを説明するのは、なかなかむずかしいことなのです。
 「足」の場合、「あし」とは物の本体に継ぎたすものである、そこで「足」に「たす」という意味が生じて、そこから「たりる」へと発展した、と説明している辞書もあります。どうですか? ごナットクいただけますか?
 こういう、ややこじつけめいた議論を避けようとする場合には、次のように開き直ってしまうのがふつうです。古代中国語では、「あし」を意味することばと「たりる」を意味することばとは、発音が同じであった。そこで、「あし」を表す「足」という漢字が、「たりる」という意味でも用いられるようになった……。
 どちらの説明が正しいのかは、今となっては確かめようもありません。ひょっとすると、現在の私たちにはちょっと思いもよらないような事情で、「あし」と「たりる」とが結びつくことになったのかもしれないのですから。
 とはいえ、「足」を「たりる」という意味で用いている熟語を確認しておくことは、重要でしょう。たとえば「満足」「不足」「自給自足」などなど。こうしてみると、私たちは気付かないうちに、「足=たりる」を使っているものなんですね。

Q0520 「惣菜」は「総菜」に書き換えるという決まりがあるようですが、現実には「惣菜」の方を多く見かけるのはどうしてでしょうか?
 たしかにそうですよね。新聞などではやはり「総菜」が多いと思いますが、スーパーの食品売り場なんかに出かけても、「お惣菜」と書いてあることの方が多いように感じます。
 「惣」は、1946(昭和21)年に当用漢字が制定された際に、その中に含まれませんでした。その後、1956(昭和31)年になって、国語審議会は「同音の漢字による書きかえ」という資料を発表しています。これは、当用漢字に含まれない漢字を、音読みが同じ別の漢字に書きかえる実例を示したリストで、「惣」を「総」に書きかえるというのも、この中に挙げられています。
 ではこのリストは、現実にはどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
 それを判定するのはなかなか簡単ではないのですが、ためしに国立国会図書館のHPで、「惣菜」「総菜」「そうざい」をタイトルに含む書籍を検索してみました。1926(大正15/昭和元)年から1945(昭和20)年までに出版された書籍では、「惣菜」が10件見つかっただけで、「総菜」「そうざい」はありません。当用漢字制定前は「惣菜」の方が圧倒的に主流であったことは、間違いないようです。
惣菜 総菜 そうざい
1946~1955 4  0  0 
1956~1965 4  0  3 
1966~1975 1  3  17 
1976~1985 4  0  28 
1986~1995 33  4  16 
1996~2005 43  2  20 
 その後、10年刻みの変遷は、表の通りです。これを見る限り、当用漢字が制定され、「同音の漢字による書きかえ」が発表された後、「惣菜」は主流ではなくなるものの、かといって「総菜」が幅をきかせるようになったわけではなさそうです。代わって登場してきたのは「そうざい」であって、しかしその覇権もつかのま、ここ20年ほどは、「惣菜」が復活しつつあるようです。
 なぜこのような現象が起きているのか? それは答えるのがとても難しい問いかけです。
 「惣」という漢字は、常用漢字にも入りませんでしたから、今でも学校で教わる漢字ではありません。国語審議会が文書を出し、新聞などがそれに従い、学校教育からも外されても、それでも、そのことと私たちの漢字生活とは、必ずしもリンクしない。――「惣菜」はそのことをよく示しているとだけは、言えるでしょう。

Q0521 お寺の過去帳を見ていたら、カタカナの「ヨ」の下に「大」と書いてある漢字が、戒名の下に書いてありました。何と読むのでしょうか?
 それは、図のような漢字ですね。これは、小社『大漢和辞典』にも載っていないのですが、JIS漢字の第4水準には収録されていて、日本の古い地名かなにかに使われたことがあるらしく、「霊」の異体字だとされています。戒名の下に書いてあるとすれば、いかにもふさわしい漢字ですね。
 『大漢和辞典』には、この字とはちょっと違った、図のような漢字が収録されています。これは、17世紀ごろに中国で編纂された『正字通(せいじつう)』という辞典で「霊」の俗字とされているとのこと。火と霊とは、真夏の夜の肝試しを待つまでもなく、なにかと関係が深いものですから、そのあたりから生じた漢字なのかもしれません。
 お尋ねの漢字は、この字の「火」が「大」に変形したものではないかと推測されます。せっかくのおどろおどろしい雰囲気が台無しのようにも思いますが、ご先祖さまに安らかに眠っていただくためには、「大」の方が縁起がいいかもしれませんね。

Q0522 「与」の旧字「與」は総画数14だと辞典に出ていますが、どうしても1画少なく数えてしまいます。どうして14画なのですか?
 これは少々やっかいな問題ですね。たしかに、漢和辞典を調べてみるとこの字の総画数は14と13の両方あって、統一されていないのが現状なのです。
 まずは、「與」の画数を13とする数え方を見てみましょう。図のように数えると13画となります。これを14として数えようとすると、6画目の一息に続けて書いた部分をどこかで区切って2つに分けるしかなさそうに思われます。
 「與」を14画とするのは、18世紀に中国で作られ、現在の漢和辞典の源流となっている『康熙字典(こうきじてん)』以来の伝統です。この辞書には、「與」と同字として図のような漢字が4画として掲載されています。この漢字は「與」の問題の部分と形が似ていますから、おそらく、問題の部分はまず縦棒だけを引いて、そのあと改めてカギ形を書くという書き方が念頭に置かれているのだろうと推測されます。
 以上からすると、「與」は14画とするのがよさそうに思えます。しかし、この数え方では、現在、一般的に「与」を3画と数えている数え方との間に矛盾を生じることになります。この点では、「與」を13画とする方に軍配が上がりそうです。
 「与」はいわゆる新字体で、『康熙字典』には掲載されていません。「与」を3画とするのも、新字体が制定されて以降に定まったものです。つまり、「與」を13画とするか14画とするかというのは、新字体を受け容れるのか受け容れないのかという問題と、微妙にリンクしてくるわけです。
 漢字の画数というと、姓名判断などに使われて、なにか大昔から決まっているようなものという印象があるでしょうが、実際には、なかなかデリケートな問題を含んでいるものなのです。

Q0523 「条」は「條」の新字体だそうですが、明治初期の戸籍に「条」が使われているのを見たことがあります。いったい「条」はいつごろ生まれたものなのでしょうか?
 新字体が制定されたのは、戦後の国語改革の際です。そう申し上げると、それまでは新字体の漢字など存在しなかったように思われがちですが、実際はそうではありません。新字体の多くは、それ以前から略字として使われてきていたもので、「条」もその1つです。
 では、その「条」はいつごろ生まれたかとなると、なかなか簡単にお答できる問題ではありません。小社『大漢和辞典』を調べてみると、『宋元以来俗字譜(そうげんいらいぞくじふ)』という字書に「条」が載っている、と記されています。この字書は、宋王朝と元王朝の時代以降、民間で使われていた異体字を集めたもので、西暦で言えば、だいたい10世紀以降となります。中国では、遅くともこのころには、「条」が存在していたわけです。
 では、それ以前には「条」は存在していなかったのでしょうか。そう思いながら、いつもお世話になっている角川書店の『書道大字典』を調べていたら、図のような字が載っていました。すこし崩されていますが、これは明らかに「条」でしょう。
 この字の書き手は、何を隠そう弘法大師空海。「弘法も筆の誤り」ということわざで今もって名高い、名書家その人であります。そう知ってから見直すと、なんとも風格のある文字ですねえ!
 空海が活躍したのは、だいたい9世紀の前半。そうして見ると、「条」は新字体とは言いながら、かれこれ1000年は使われてきた漢字だということになりそうですね。

Q0524 植物のモチノキは、漢字で書くと「黐の木」だそうですが、この「黐」のなりたちを教えてください。
 「黐」は音読みチ、訓読みでは「もち」と読む漢字です。この場合の「もち」とは、棒などの先にくっつけて、小鳥や昆虫などをつかまえるのに使う「とりもち」のことです。そこで、「黐」1字で「とりもち」と訓読みすることもあります。
 この漢字は、「黍」部という部首に所属しています。「黍」は音読みショ、訓読みでは「きび」と読んで、穀物の一種を表す漢字です。ただし、この部首はとてもマイナーで、ふつうの漢和辞典だと、せいぜい5文字くらい載っていればいいところ。私たちが日常生活でお目にかかる可能性がある漢字としては、「黍」と「黐」の他には、明け方を意味する「黎明(れいめい)」の「黎」くらいでしょうか。
 キビとは、桃太郎で有名なキビダンゴの原材料であることからもわかるように、ダンゴやモチとして用いられることがあります。そこで、「黍」を部首とする漢字には、弾力性があることを意味する漢字が集まっています。小社『大漢和辞典』でこの部首に所属する漢字は、さすがに52文字もありますが、その大半に「ねばる」という訓読みが与えられています。
 「黐」もその1つ。この漢字の左半分の「黍」は、「ねばねばしている」ことを表しています。では、右半分はどうなのでしょうか?
 この漢字は、音読みではチとかリとか読み、山に住むアヤシイ動物のことを意味していたと言われていますが、現在はほとんど使われることがありません。「離」の右半分にも使われているのですが、漢字の一部分になった場合、特定の意味を見いだすことはむずかしいようです。単純な形声文字と考え、「黐」の場合は音読みチを、「離」の場合は音読みリを表しているだけ、と理解しておくのがよさそうです。

Q0525 「舊」や「歡」の最初に書く部分は、「くさかんむり」とは違うのですか?
 「舊」は「旧」の旧字体、「歡」は「歓」の旧字体ですね。前者の上半分、後者の左半分は、本来はそれぞれ図のような形をした漢字だとされています。小社『大漢和辞典』によれば、左側の漢字は「みみずく」、右側の漢字は「こうのとり」という意味です。
 よく見るとわかるように、これらの漢字の頭の部分は、「草かんむり」とは少し違っています。2本の縦棒の間には横棒が全くなく、「┤├」のようになっているのです。これは、「みみずく」や「こうのとり」の頭の部分をそのまま絵に写したのだと言われています。たしかに「みみずく」には耳のように突き出た羽毛がありますから、この「┤├」の部分はそれを表しているのだと想像されます。
 つまり、問題の部分は、「草かんむり」とは字源的に別物なのです。ただし、この違いを書き分けるのはかなりめんどくさいので、「草かんむり」と同じように書いてしまうことも多くあります。漢和辞典などを除いては、この違いには無頓着なのが現実です。
 同様の例としては、「夢」や「蔑」があります。これらの頭の部分も、本来は「┤├」の形をしていますが、字源としてはさらに違って、「みみずく」の耳ともまた別物だと説明されています。これらもひっくるめて、現実には「草かんむり」と同じように書かれるのがふつうです。


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