| Q0151 |
腸などの一部分が飛び出る症状を「憩室」というのですが、この場合の「憩」は、どういう意味で使われているのでしょうか? |
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医学にうとい私にとっては、聞き慣れないことばですね。早速、『大漢和辞典』で「憩室」という熟語を探してみましたが、残念ながら収録されていませんでした。小学館さんの『日本国語大辞典』も見てみましたが、こちらには収録はされているものの、用例などは特に挙がっていません。
これらから考えますと、このことばは、中国医学から来ていて漢籍に用例のあることばでもなければ、江戸時代の蘭学者が作り出したことばでもなく、比較的新しいことばである可能性が高いと思われます。
さて、問題の「憩」ですが、この漢字は基本的には、「休憩」という熟語としてよく使われるように、「やすむ、いこう」といった意味しかありません。それがどうして腸の異状を表すようになったのでしょうか?
「憩室」は英語では、diverticulum といいます。ここから先は推測なのですが、このことばは、divert と関係があるのではないでしょうか。divert とは、脇へそらす、という意味ですから、腸の一部が飛び出て、消化されたものがそちらへそらされてしまう状態と、ぴったり一致します。そして、この divert には、気をそらす、気を晴らさせる、楽しませる、といった意味もあるのです。ここまで来れば、「憩」という漢字の意味まで、ほんのちょっとでたどり着けそうです。
おそらく、「憩室」ということばは、明治以降の学のあるお医者さんが、原語の意味をあまりに巧妙に漢字に置き換えてしまったために、現在の我々にとってはちょっと意味のわからなくなった、そんなことばなのではないでしょうか。 |
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| Q0152 |
カンリと読む熟語には、「管理」「菅理」「監理」「官吏」などがあるようですが、それぞれどう違うのですか? |
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まず、「官吏」というのは、これはお役人さんのことです。それから、「菅理」というのは、私もびっくりしたのですが、インターネットで検索すると、結構ヒットすることばです。でも、やっぱり「管理」の誤植だと思います。
ややこしいのは、「管理」と「監理」の違いでしょう。国語辞典を調べてみると、「監理」の方に、「監督し管理すること」などと書いてあります。ここからすると「管理」の方が意味が広く、それに「監督する」が付け加わって狭い意味になったものが「監理」ではないかと思われます。
しかし、これだけでは納得したような、納得しないような感じですよね。しかも、いくつかの国語辞典を調べてみたのですが、「監理」の用例として挙がっているのはどれも判を押したように「電波監理局」。1つしか用例がないのでは、すっきりする説明はなかなか得られません。
そこで視点を変えて、「管」と「監」の意味の違いを考えてみることにしましょう。「管」は基本的には「くだ」という意味の漢字で、「管理」「管制」「管掌」のような用い方は、派生的に生まれてきたもののようです。そのあたりの事情ははっきりしませんが、「管」という字そのものに、「管理」につながるような強いイメージはありません。
一方「監」は、古い字形では図のような形をしていて、これは、お皿に張った水を上から人がのぞき込んでいる形だと言われています。そこから、この字には「しっかり見る」という意味が生まれてきました。「監理」との関係からいくと、しっかりそばで見張っている、という強いイメージがあるように思います。
この「管」と「監」のイメージの違いが、「管理」と「監理」にも反映しているのではないでしょうか。そのため、「監理」の方がより狭く、強いイメージを持っているのだと思われます。まあ、こんなことを言ったって、やっぱりすっきりした説明にはなりませんが……。 |
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| Q0153 |
書物のページのことを「頁」と書くのは、どうしてですか? |
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外来語に漢字を当てる例については、Q0140でもいくつか見ましたが、この「頁」も同じような例だといえます。この字は、一般には「おおがい」という名前の部首として知られていますが、単独の漢字としては、ページという意味で使われる以外に、現在ではほとんど用例がないと思われます。そして、小さな漢和辞典を引いてみても、音読みはケツとあるぐらいで、ページとのつながりは見出せないのではないかと思います。
さて、そこで『大漢和辞典』の登場です。早速、調べてみると、「頁」のところには、ケツとは別にヨウという音読みも挙がっていて、この読み方をする場合に、ページという意味を表すのだ、と示されてます。『大漢和辞典』に引用されている『中華大字典』という中国の辞書では、その点を「頁の読み方は葉と同じである」と説明しています。
ここまで来ると、カンのいい読者のみなさまはお気づきになると思いますが、紙を数える単位として、「葉」を用いることがあります。それが、音読みを同じくするというところから、「頁」に転じて、「頁」の字をページの意味で使うようになった、というのが、一般に言われている説明なのです。
ただし、近代中国語では「頁」はヨウに近い発音を持ってはいるのですが、ケツとヨウとが発音上、あまりに無関係なのは、ちょっと気になります。この点に関して、『大漢和辞典』では、ある中国の地理書の記事を引用しています。それによると、「庫葉島」という島のことを「庫頁島」とも書く、というのです。
ちなみにこの庫葉島、記述を読む限りではどうやら樺太(からふと)のことのようなのですが、樺太にそんな別名が本当にあったのかどうか、詳しいことはわかりません。あったのだとすると、ページを「頁」と書く遠い源は意外にも樺太にあった、といえなくもないのかもしれません。 |
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| Q0154 |
裁判所は「所」、警察署は「署」、この2つのショはどう違うのですか? |
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う~ん、今まで考えたことのなかったご質問ですねえ。
「署」の代表的な意味は、「署名」という熟語にあるように、「書き記す」という意味です。しかし調べてみますと、それ以外にも、ズバリ、役所という意味があることがわかりました。「署」の字の部首は、一番上にある「目」が横になった形をした部分(「よこめ」と言います)ですが、これは「网(あみがしら)」が変化したもので、もともとは網の象形文字なのです。「署」の字の役所という意味は、網のように区分けする、という所から生じて来ているようです。
「所」の方は、基本的には「ところ」の意味で、非常に使用頻度の高い漢字です。そのぶんだけ、特定のイメージを持たない字であるとも言えるでしょう。そこから考えますと、「所」と書くよりも「署」と書いた方が、役所というイメージが強く出るのではないでしょうか。警察署、消防署、労基署など、「署」の付くものを並べてみると、いかにもお役所然としているようにも思えてきます。
この印象が本当だとすると、裁判所が「所」なのはありがたいですね。お役所を相手に訴訟を起こしても、公平に裁いてくれそうな気がしてきます。もし「裁判署」だったら、確実に敗訴することでしょう。また、派出所が「所」なのも、警察署と違って市民生活に溶け込んでいるようにも思えて、親しみがわくように思えてきたのですが、いかがですか?
(注)その後、読者の方から、「署」には告発権があるが「所」にはない、というご指摘をいただきました。法律的な定めがあるのかどうか、裏は取れませんでしたが、現実としてはその通りになっているようです。 |
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| Q0155 |
昔の漢和辞典を見ると、「門」の右下ははねないとか、「蝮(まむし)」の「夂」の部分が「夊」のように突き出ているとか、今の漢和辞典と違うこだわりがあるような気がするのですが、どうしてですか? |
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日本の漢和辞典の字形は、基本的に中国の『康熙字典(こうきじてん)』をモデルとしています。そのことについては今も昔も変わらないのですが、現在の漢和辞典は、この他に『常用漢字表』の字体もモデルにしていることが、昔の漢和辞典との違いです。
この2つのモデルの間には、しばしば、字体の違いがあります。たとえば『康熙字典』で「廣」となっている字が、『常用漢字表』では「広」となっている、といった具合です。このような場合、漢和辞典の世界では、前者を旧字体、後者を新字体として表示するのが一般的です。
ところが、この両者の違いが非常に微細であるケースがあります。ご質問の「門」の字形は、『康熙字典』では図のように右下がはねていないのですが、『常用漢字表』では、右下がはねています。そこで、これも前者を旧字体、後者を新字体として扱うのが、スジというものでしょう。実際、そのようにしている漢和辞典もないわけではありません。
しかし、これを推し進めていくと、「門」を含む漢字で常用漢字になっているものはすべて新旧両字体が存在することになり、漢字の数が膨大になってしまいます。また、常用漢字に入っていない漢字との釣り合いも取れません。そもそもこの差異が、表意文字としての漢字にとってそれほど重大だとも思えません。そこで、この程度の微細な差異に関しては、無視してしまうケースが多いのです。
あるいはまた、微細ではあるが重要だ、というケースもあります。ご質問の「蝮」に含まれる「夂」の場合、「夂」と「夊」は本来、音読みも意味も違う別の字です。そこで、微細な差異ではあるものの、漢和辞典でもこの2つを区別していることが多いのです。たとえば「夏」の字の場合、『康熙字典』では「夊」の形、『常用漢字表』では「夂」の形をしています。そこで、前者を旧字体、後者を旧字体として扱うことになるのです。
しかし、これも推し進めていくと、「門」と同様の理由で、たいへんなことになります。そこで、小社の学習漢和辞典『新漢語林』では、この場合、「夊」を部首として持つ「夏」などの代表的な字に限ってこの差異にこだわることにし、それ意外では無視することにしています。その結果として、「蝮」の場合には、本来は「夊」であるにもかかわらず、「夂」の形にしてしまっているのです。
このように、漢和辞典の字体は、細かい部分に目を凝らしていくと、実はけっこういい加減であることが多いのです。複数の漢和辞典を比べてみたりすると、編集者のいい加減さの度合いや、興味・関心の方向がわかっておもしろいかもしれません。
でも、編集者の側から言わせていただくと、そういうチェックをあんまりされると、いろいろボロが出てしまって困る、というのが本音でもあるのですが……。 |
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| Q0156 |
「冫(にすい)」の付く漢字は氷と関係があると聞きましたが、本当ですか? |
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その通りです。「冫」の付く漢字としてすぐに思いつくのは「冷」ですが、これはもともと氷の冷たさを表した漢字です。他にも「凍」は文字通り水が氷になることを表していますし、「凝」ももともとは同様です。「凜々と」とか「凜として」なんていうときの「凜(りん)」という漢字も、もともとは寒さが厳しいことを表す漢字で、氷と関係があります。
この「冫」は、もともとは図のような形をしていて、氷の結晶の象形文字だと言われています。そこで、この字が、形声文字の意符、平たくいえば部首となって、氷に関係する文字が生まれてきた、というわけです。
ちなみに、部首は「にすい」ではありませんが、「冬」という漢字も、「夂」と「冫」から成り立っている漢字です。「冬」の下の点々が氷だとわかかった上で、改めてこの字を眺めてみると、いかにも冷え冷えとした季節感が伝わってきて、ああ、足の下から冷え込んできそうです。 |
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| Q0157 |
「改」という漢字の「己」の最後は、はねるのですか? どの活字を見てもはねていますが、漢字ドリルにははねないと書いてあります。 |
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この漢字の場合、明朝体やゴシック体といった、一般によく使われる活字書体では、この部分ははねているのがふつうです。しかし、小学校の教科書などで使われる教科書体と呼ばれる活字書体では、図のように、この部分を止めたデザインになっています。おそらく、ご覧の漢字ドリルは、それに従っているのではないかと思われます。
さてここで久しぶりに、『常用漢字表』の「(付)字体に関する解説」という文書に登場していただきましょう。この文書については、Q0078やQ0101でご紹介しておりますので、詳しい説明はそちらをご覧いただくことにします。
この文書では、図のように例示して、「改」の問題の部分は、はねてもはねなくてもよい、と断っています。寄らば大樹の陰。おそれおおくも内閣告示の『常用漢字表』ですから、その断り書きを無視するわけにはいかないでしょう。それに、この部分がはねていてもいなくても、別の字と間違うことはありません。したがって、お答えとしては「どちらでもよい」ということになります。
このような、漢字の字形に関する厳密すぎる指導は、かつての当用漢字の時代には盛んに行われたようですが、現在から振り返って見ますと、あまり意味のあることとは思えません。「改」の場合、「己」を書き終わったあとは「攵」の「ノ」の部分を書かなくてはいけませんから、むしろ少し上へとはねる方が自然でしょう。そのような自然の摂理を踏みにじってまで「はねない」とするような書き取りの指導は、もういい加減にしてほしいものです。 |
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| Q0158 |
「閉」の「門」の部分は「かまえ」と言いますが、「才」の部分にはなにか名前が付いているのですか? |
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このご質問、目の付け所はなかなかおもしろいとは思うのですが、お答えとしては、「吾輩は猫である」ではありませんが、名前はない、ということになってしまいます。
Q0022でご説明したように、もともと部首というものは、その漢字の一部分を指すものではなく、漢字の辞典において漢字を分類するためのグループ名なのです。したがって、たとえば「かまえ」という部首の名称も、ある部首が、漢字の左右と上側を占めている場合にそう呼ばれることが多い、というだけのことで、そういう漢字の一部分そのものを指している名称ではないのです。
それでも、漢字の左半分を「へん」と呼ぶのに対し、右半分は「つくり」と言うではないか、というご意見があるかもしれません。しかし、たとえば「杉」という漢字は「木へん」に所属していて、「さんづくり(彡)」という部首に所属しているわけではありません。したがって、「杉」は「木へん」と「さんづくり」から成り立つ漢字である、というのは、厳密に言えば、間違った説明と言えるでしょう。より正確に表現するならば、「杉」は「木へん」と「さんづくりに見える部分」とから成り立っている、とでも言うべきでしょうか。
つまり、同一の漢字に部首の名称としての「へん」と「つくり」が同時に存在していることはないわけです。したがって、「へん」でない部分を「つくり」と呼んでいるわけではない、ということなのです。
うまく伝わったかどうか不安なのですが、そのことをご理解していただけますと、「かまえ」でない部分には名前が付いてはいない、ということがご理解いただけるのではないかと思います。 |
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| Q0159 |
「魚へん」に「比」と書いて、なんと読むのですか? |
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この字、『大漢和辞典』に出てはいるのですが、その説明は、「魚の名」とだけあって、なんという魚なのかは書いてありません。それもそのはず、詳しく解説を読んでいくと、鳥のような顔をして魚のようなひれと尾を持ち、石を打ったときのような甲高い声で鳴いて珠玉を生む魚、というのですから、これは中国古代の伝説の怪物の話。日本語としての名前がついていなくても、不思議はありません。
しかし、それで終わってしまっては、漢字文化資料館の名がすたるというもの。そこで、最近、古本屋で買い求めた『水産動植物漢和辞典』なるものを引っ張り出してきました。刊行は1957(昭和32)年、編者は西武男という、どうやら水産庁の官僚だったらしい人。全500頁のガリ版刷りで、水産関係の動植物の漢字表記を、幅広い文献にあたって収録したという、なかなか、眺めていて飽きない辞典です。
これによりますと、「魚」へんに「比」と書く字は、「かじか」という読み方があることがわかります。「かじか」には、カエルの一種と、魚の一種の両方がありますが、どちらかはわかりません。また、この字のあとに「目」を書いて、「かれい」という読み方もあるようです。目が片寄っている魚、というイメージがなんとなく伝わってきますよね。 |
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| Q0160 |
「椥」という漢字は、なんと読むのですか? |
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この字は、日本で作られたいわゆる国字と呼ばれる字です。したがって音読みはなく、訓読みで「なぎ」と読みます。京都市の山科区には「椥辻」と書いて「なぎつじ」と読む地名があり、京都市営地下鉄東西線にも「椥辻駅」があります。同じく東山区には「椥ノ森」と書いて「なぎのもり」と読む地名もあるようです。ただし、こういった固有名詞以外でのこの字が用いられた例は、いまのところ、見つかっていないようです。
パソコンで簡単に表示できるJIS漢字の中には、このように日本の地名にしか使われない漢字が数多く採用されています。こういった漢字は、インターネットで検索をかけるとすぐにヒットはするものの、固有名詞にしか出てこないので、意味がよくつかめないことが多いと思います。そういった時に役に立つのは、やっぱり、漢和辞典。最近の漢和辞典は、JIS漢字は全て収録しているものが多いので、この「椥」のような漢字も載っているはずです。そして、そこには、日本の地名で使われる漢字だという記述がなされているはずです。
古い漢和辞典を使っているみなさん。そろそろ買い換えをお考えになってはいかがですか。その際は、小社の『新漢語林』をぜひどうぞ! と、たまには宣伝をしておきましょう。
(注)その後、読者の方からこの字が中国で刊行された『漢語大字典』や、台湾の文字コード表に載っているとのご指摘をいただきました。日本と中国とでどちらが早いのかは検討を待たねばなりませんが、「国字」と断定するのは、早計のようです。 |
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| Q0161 |
『朝日新聞』の題字の「新」の字は、よく見ると「木」の部分が「未」になっています。そのような字は実在するんでしょうか? |
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確かにそうなんですよね。昔からこれに気の付いた人はいるようで、調べたところ、1963(昭和38)年1月21日付け『朝日新聞』の「読者と新聞」という欄に、同じ趣旨の質問が載っています。尋ねた人は、千葉の学生と東京の会社員になっていますから、複数の人が、この字について疑問を持っていたのに違いありません。
この記事によりますと、『朝日新聞』の題字は、7世紀ごろの中国の書家・欧陽詢(おうようじゅん)が書いた「宗聖観記(そうせいかんき)」の中から集めたものだそうです。ところが、問題の「新」の字だけはその中になかったので、「親」と「柝」から寄せ集めて、ご丁寧なことに「ヽ」を削って作り上げた、なんていうおもしろい話になっています。だとすると、欧陽詢は「親」の「木」の方を「未」と書いていたことになるのですが、これは誤字なのでしょうか?
実は、そうでもないのです。「新」にせよ「親」にせよ、この左側の部分は、一般に、「辛」と「木」とから成り立っている、と説明されています。そして、この2つの字がともにシンという音読みを持っているのは、この「辛」という字の音読みがシンであることに由来している、というのです。
「辛」と「木」を縦に並べて書くと、私たちの知っている「新」の左側より、横棒が一本多くなります。図は、「新」の古い字形の1つ(篆文)ですが、これを見ると、そのことがよくわかります。つまり、『朝日新聞』の題字の「新」という字は、ややもすると、私たちがふだん使っている「新」という字よりも、字源的には「正しい」とさえ言えるのです。
そのあたりの事情について、先に挙げた『朝日新聞』の記事では、「漢字が太古の象形文字からだんだんに変化して今日のような字体にたどりついた過程の中で、千数百年前にはこのように書かれていたというわけです。」と説明しています。
この字のような書体は、一般に隷書(れいしょ)と呼ばれる書体に分類されていますが、昔は、書籍や雑誌などの題字を隷書で書くことが多かったようです。図書館に行って、古めかしい書物の背などを眺めてみると、きっと、今まで見たことのなかったいろいろな字に出会えるに違いありません。漢字マニアにはおすすめですよ。 |
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| Q0162 |
「参」という漢字の5画目は4画目と離れていると思いますが、くっつけて「大」のように書いたら、漢字テストでは×でしょうか? |
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たしかに、この字はほとんどの活字では、図のように問題の箇所が離れてデザインされています。しかし、活字で見た字の形をそのまま再現できないと間違いだと考えるのは、漢字の字形をとても窮屈にしてしまうことになると思います。そこでまず、ここを離して書かなければならないという根拠があるのかどうかを考えてみて、その根拠の度合いによって間違いかどうかを判断するのがよいと思います。
「参」という漢字は、いわゆる新字体と呼ばれる字体で、以前は図のように書くのが正式な字体でした。この2つを比べてみるとわかるように、問題の「大」のような部分は、実は「ム」2つと「人」から成る部分を、省略した形なのです。ここからすると、問題の部分は、むしろくっつけて書く方が、以前の字体に忠実な「由緒正しい」書き方だとも言うこともできるかもしれません。
では、現在の活字がこの部分を離してデザインされている根拠は、いったい何なのでしょうか。それはおそらく、「彡」の部分の書きやすさだろうと思われます。問題の部分を離して書いた方が、「彡」を書くためのスペースが大きく取れます。つまり、ゆったりとした美しい字を書くためには、この部分は離して書いた方がよいのです。
どちらの形で書いたにせよ、その字が「参」であることがわからなくなってしまうようなことは、まずありえません。そうだとすれば、漢字テストなどでは、くっつけて書いても×にはせず、「ただ、離して書いた方がきれいに書けるよ」という指導をしていただけると、子どもたちにとってもよいのではないでしょうか。 |
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| Q0163 |
俳句を読んでいたら、「虎落笛」ということばに出会ったのですが、なんと読むのでしょうか? |
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「虎落」というのは、コラクと読むとれっきとした漢語で、『大漢和辞典』にも出てきます。意味は、割った竹を組んで作った垣根のこと。紀元1世紀ごろに書かれた『漢書(かんじょ)』という歴史書にすでに用例がありますから、なかなか由緒正しい漢語ですが、なぜ「虎が落ちる」と書いてこんな意味になるのかは、よくわかりません。「落」には「垣根」の意味があるようですので、見た目がトラ縞に見えるからとでもいうのでしょうか。
さて、この「虎落」が日本語として読まれるときには、「もがり」と読むのだそうです。「もがり」というのも、意味としては同じく竹を組んで作った垣根のことですから、漢字2文字に対して日本語1語をあてた、いわゆる熟字訓というやつです。
ここまでが前置きで、ようやく本題に入ります。ご質問の「虎落笛」ですが、これは「もがりぶえ」と読みます。竹の垣根と笛とがどう結びつくのかというと、冬の強い北風が、竹の垣根にあたってその隙間を吹き抜けて、笛のように音をたてる、そのことを「もがりぶえ」というのだそうです。転じて、冬の強い北風のことも表して、俳句の世界では冬の季語となっています。
古代中国でトラを表していた漢字が、現代日本では北風を意味することばに使われる。ことばにはおもしろい歴史があるものですね。 |
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| Q0164 |
『康熙字典』の親字の中には、版によって字形の違うものがあるようなのですが、どうしてですか? |
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スルドイですね! お気づきのとおり、『康熙字典(こうきじてん)』にはいくつかの版があります。最初に完成された1716(康熙55)年のもののほか、1827(道光7)年にも出版されていますし、日本でも、篆刻家・読本作者として名高い都賀庭鐘(つがていしょう)が1780(安永9)年に出版した校訂本、1885(明治18)年の序がある渡部温(わたなべおん)の訂正本(現在、講談社から出版)などがあります。
当時の印刷術といえば基本的に木版刷りですから、これらの諸本は、ご丁寧なことにそのたびに1ページずつ版木に彫り込んで印刷されたものと思われます。活字母型が流用できる活版印刷や、文字データを流用可能なコンピュータ印刷とはわけが違うのです。従って、版木を彫り直すたびに、なんらかの相違点が出てくるのは、どうしようもありません。
図は、「檀」という字について、道光版・都賀版・渡部版を並べてみたものです。こうやって並べてみると、それぞれの字体に特徴があるだけではなく、右下の「旦」の部分が、道光版と都賀版では、限りなく「且」に近い字形になっていることがわかります。『康熙字典』の各版の間には、時には、このような重大な違いがあることもあって、いろいろと悩ましいことも多いのです。
そこで、現在、『康熙字典』について語る場合は、これらのうちの道光版を基準にしていることが多いようです。中国で出版されている『康熙字典』も、多くは、道光版に拠っているようです。 |
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| Q0165 |
「年齢」を「年令」、「○歳」を「○才」と書くことがありますが、正式にはどうなのでしょうか? |
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小社『明鏡国語辞典』には「表記」という欄があって、書き表し方に関する情報を簡単明瞭に解説してあります。そこで、早速、「ねんれい【年齢】」の項目を調べてみますと、その「表記」欄に「小学校では学年配当の関係から『年令』で代用する。」と書いてあります。また「さい【才】」のところにも同様の記述があります。
もうちょっと噛み砕いてご説明しておきましょう。小学校で学習する漢字は、一般に教育漢字と呼ばれていますが、「齢」も「歳」も、この教育漢字に入っていないのです。しかし、「年齢」も「○歳」も、実生活のさまざまな場面で頻繁に使用しなくてはならないことばです。そこで、「齢」は、4年生で学習する「令」の字を代わりに用い、「歳」は、2年生で学習する「才」の字を代わりに用いることにしよう、というわけです。
つまり、「年令」も「○才」も、きちんとした漢字を学習するまでの間の仮の書き方だといえます。「齢」も「歳」も常用漢字ですから、遅くとも中学校を卒業するまでには学習するはずです。それ以後は、やはり、「年齢」「○歳」と書くのが、オトナだということになりましょう。
ただし、「年令」「○才」という書き表し方が、教育漢字の制定によって生まれた、完全に子ども専用のものであるかというと、そうでもありません。『大漢和辞典』の「才」の項には、日本では「歳」の略字として用いる、というような説明があります。『大漢和辞典』の基礎的な部分は教育漢字の制定以前に編集作業が完了していますから、「○才」という書き表し方は、それ以前から存在していたことになります。おそらく「年令」についても、略字としては、古くから存在していたのではないでしょうか。
とはいうものの、それはあくまで手書きの略字の場合に限ってであったろうと思われます。正しいオトナはやはり、「○歳」を使った方がよいだろうと思われます。 |
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| Q0166 |
「夏」という字の「夂」は、1画目の書き始めが上の「目」にくっついているのが、正しい書き方なのでしょうか? |
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「夂」の形の書き方については、以前、Q0116でもご説明したのですが、ご質問が多いので、詳しい説明はそちらをご覧いただくこととしつつ、もう1度取り上げておくことにします。
たしかに、「後」や「夏」の「夂」について、1画目の書き始めが上にくっつかなくてはならない、とする考え方は存在します。私がいつも参照しているのは、藤原宏編『新版漢字書き順字典』(第一法規)という本なのですが、この本でも、そのような説明がなされています。元文部省視学官の藤原先生にはまことに失礼ながら、該当部分を図版として掲げさせていただきます。
問題は、この図の朱書きの部分についてということになりますが、この本の「本書の内容と使い方」には、この朱書きの部分について、「漢字を楷書で手書きする場合、朱書きで示した事項には特に留意して書くようにするとよいと思われます。」と書いてあります。これだけを読むと、朱書きどおりに書かないといけないようにも受け止められますが、これには続きがあって、次のようになっています。
「朱書きの箇所は、以上のような趣旨で示したものであって、文字の正誤の表示ではありません。ですから、この留意事項のとおりに書かないと、誤字になるという趣旨のものではありませんので、くれぐれもその点に留意して児童の学習の際活用していただきたいと思います。」
以上のように、「後」「夏」の「夂」の1画目が上にくっつくかどうかは、文字の正誤の問題ではありません。あくまで、字形のバランスを取って、美しい字を書くためには気を付けた方がよい、というレベルのものです。そのあたりを十分にご理解いただければと存じます。 |
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| Q0167 |
「品質」という熟語は、最近では「経営品質」「サービス品質」といった、品物の質とは関係のない使われ方もしますが、こういう使われ方は正しいのでしょうか? |
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「品」という漢字は「口」3つから成り立っていますが、別に「くち」と関係があるわけではなく、もともとは、さまざまなものが並んでいる状態を表していたと言われています。そこでこの漢字の本来の意味は、単なる「もの」ではなく、むしろ「ざまざまな」の方にあったのではないかと考えられます。さまざまなものがあると、自然とその中の優劣が問題となり、そこで「ものの性質」という意味が生まれてきたのでしょう。
このことは、現在でも私たちががよく使う「上品」「下品」「品評」「品格」「気品」「品行」といった熟語の「品」の字が、「しなもの」の意味ではなく「性質」という意味で使われていることを考えても、よくわかるのではないかと思います。
そこで、「品質」についても、この熟語のもともとの意味は「品物の質」ではない可能性が考えられます。むしろ、「品」も「質」もともに「性質」という意味で使われているのではないか、と思われるのです。
小社でかつて出版していた『月刊しにか』2002年7月号の特集2「漢語の履歴」の「品質」の項(陳力衛執筆)によりますと、「品質」は日本人が英語の quality に対して作り出した訳語で、その初出は1887(明治20)年の『附音挿図和訳英字彙』という、長い名前の辞書だそうです。この辞書には、 quality の訳語として他に「本質」「特質」「性質」が挙げられているそうですから、この時点では「品質」には「品物」の意味はなかったと考えてよさそうです。
しかし、陳先生によれば、早くも明治の20年代から、「品質」を「品物の質」という意味で使うことが一般的になったそうです。現在では、たとえば小社『明鏡国語辞典』の「品質」の項では、「品物の質」の意味以外は記述されていません。漢字の字面の影響力の大きさというものを、あらためて感じさせる事例といえましょう。
以上から考えますと、「経営品質」「サービス品質」といった「品質」の使い方は、先祖返りしたような使い方だといえそうです。ただし、グローバル化が席巻するビジネスの世界のことですから、それぞれが quality of management や quality of service の訳語だという可能性も大いにあります。とすると、意図的に先祖返りをしてみせたというよりは、直訳が無意識に先祖返りを生んだ、というだけのことなのかもしれません。 |
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| Q0168 |
最近、「護美」と書いて「ごみ」と読ませる例を見かけますが、この書き方には何か根拠があるのですか? |
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「ごみ」というと、私などはすぐに「ゴミ」という書き方を思い浮かべてしまうので、なんとなく外来語のような気さえしていました。しかし、調べてみるとなんと『平家物語』にも出てくることばだといいますから、れっきとした日本語です。辞書によれば、漢字で書く場合には「塵」や「芥」と書きますが、どちらも日常生活で目にすることはあまりないのではないでしょうか。
さて、この「ごみ」を「護美」と書くのは、インターネットで調べてみると、「塵」や「芥」よりもひょっとすると一般的なのではないか、と思われるくらいに例があります。この「護美」という書き方は、もともとは「護美箱」という形から来ているのではないかと思われます。
『朝日新聞』の1962(昭和37)年12月10日付夕刊の「今日の問題」という記事に、「護美箱」に関する記述があります。高度経済成長の最中、ゴミ問題がだんだんと意識されるようになってきたころ、九州のある市で、市が規格品のゴミ箱を配ったことがあったそうです。ところがそれに「護美箱」と書いてあったことから、そんな仰々しい名前を付けるのはおこがましい、と批判が続出した、というのです。
「護美箱」は、漢文風に訓読すると「美を護(まも)る箱」となり、「ゴミを入れることにより周りの美しさを守る箱」という、ちょっとしゃれた当て字でしょう。そのしゃれの出来不出来はともかくとして、「仰々しい」と感じる人がいたということは、この当時、「護美」という書き方は全く目新しいものだったのだと想像されます。
現在では、観光地や学校などで「護美箱」と書いたゴミ箱を見かけることがよくありますが、この書き方は、おそらく1960年ごろに生まれたものなのでしょう。それから40年以上が過ぎ、最初は「仰々しい」と言われたこの書き方も、一定程度の市民権を得て、「護美」だけが独立して使われるようになってきたわけです。漢字と日本語との関係には、こんな一面もあるのだなあ、と考えさせられますよね。 |
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| Q0169 |
「凉」と「涼」は、同じ漢字でしょうか? それとも、別の漢字でしょうか? |
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この2つの漢字について漢和辞典を調べてみると、両者は異体字の関係にある、ということで諸書一致しています。つまり、読みも意味も同じである、ということです。一般によくつかわれるのは「さんずい」の方の「涼」ですから、「にすい」の「凉」はその俗字にあたる、という言い方もよくされます。
「さんずい」と「にすい」は、形もよく似ているので、よく混同されます。しかし、意味の上から厳密に考えると、もともとは違う意味のことが多いのです。たとえば「清」という漢字の「にすい」バージョンもありますが、そちらは「すずしい」とか「つめたい」とかいう意味で、「きよらか」とはちょっと違います。また、「冷」という漢字の「さんずい」バージョンもあるのですが、これは「澄む」という意味で、「つめたい」とはだいぶ違います。これらから推測すると「凉」と「涼」の間にも意味の違いがありそうなものですが、これは両者とも「すずしい」という意味で、全く同じと考えてよい、珍しい例だといえそうです。
しかし、だからといって「凉」と「涼」が「同じ漢字」なのかというと、問題は少しむずかしくなります。つまり「同じ漢字」とは何なのか、という問題があるのです。見かけが少しでも違えば「別の漢字」だ、という立場に厳密に立つと、手書きで漢字を書く場合、なぞらない限り完璧に同じ形の字を書くことは非常に困難ですから、「別の漢字」だらけになってしまいます。そこで、見かけがどこまで違うと「別の漢字」だと認定するのか、という線引きの必要が出てきます。このあたり、考え始めるとドツボにはまってしまう、頭のイタ~イ問題です。
ドツボは回避するとして、「凉」と「涼」の場合に限って考えてみると、これらは「にすい」と「さんずい」という、明らかに違う要素を含んでいますから、「読みも意味も同じだけれど別の漢字」としておくのがよいのではないかと思います。 |
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| Q0170 |
「瓶」と「壜」は、どちらもビンですが、意味の違いや使い分けなどあるのでしょうか? |
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「壜」は、現在ではビンと読んで、主にガラス製の液体用容器の意味で使われます。しかし、漢字が生み出された遠い昔の時代には、ガラスは「超」の付く貴重品でしたから、もともとは土器の壺のことを表していました。そのことはこの字に「土へん」が付いていることからもわかります。
一方、「瓶」はというと、こちらには「瓦」が付いています。瓦というと、私たちはすぐに屋根瓦のことを思い浮かべてしまいますが、もともとは陶器一般のことです。実はこの「瓦」、たいへん地味ではあるのですが部首の1つで、漢和辞典でその「瓦」の部首のところを調べてみると、陶器に関する漢字がたくさん並んでいるのです。
そういうわけで、「瓶」はもともと陶器の壺を意味していた漢字ですから、「壜」も「瓶」も、大昔においては、ほぼ同じ意味であったといえます。ただし、そのころの「壜」の音読みは、ビンではなくて、タンであったようです。この漢字がビンという読み方でガラス製の容器を表すようになったのは、実は日本独自の用法だとされています。これに対して「瓶」の方は、もともとの音読みはヘイで、ビンという音読みは、それが時代とともにに変化したものです。つまり、ビンという読み方を表す漢字としては、「瓶」の方が正統派なのです。
このように、「瓶」と「壜」は、意味の上からはほぼ同じなのですが、ビンという読み方として用いる場合には、「瓶」の方が由緒正しいといえます。現在の『常用漢字表』で、「瓶」だけが採用されている理由も、このあたりにあるのでしょう。一般生活では、こちらを使っておく方がよさそうです。 |
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| Q0171 |
杜牧の漢詩「江南の春」の名句「南朝四百八十寺」で、「十」をシンと読むのはなぜですか? |
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いい詩ですよね。「南朝(なんちょう)四百八十寺(しひゃくはっしんじ)、多少の楼台(ろうだい) 煙雨(えんう)の中(うち)」というんですが、春雨の中に数多くのお寺の建物がかすんで見える、という、いかにも春らしい風景です。
さて、漢詩の世界では、漢字の発音を大きく2つに分類します。1つは、音調に変化のない平らな発音で、これを「平(へい・ひょう)」といいます。もう1つは、音調に変化のある発音で、これを「仄(そく)」といいます。といっても、これはあくまで中国語の発音の話ですから、日本人にはよくわからなくて当然です。
漢詩という文学は、発音の美をたいへん重視するので、この「平」と「仄」の並べ方について、厳格な決まりがあります。その全体は、漢詩の専門書を読んでいただくとして、その決まりに従うと、この「南朝四百八十寺」の「十」の部分には、「平」の発音をする漢字が来なくてはいけないのです。ところが「十」のごくごく一般的な発音は、「仄」の方なのです。
そこで、この「江南の春」の詩は、厳密にいうと規則に外れた作品ということになってしまうわけですが、いやそうではない、と主張する一派がいるのです。「十」には実は「平」の発音もあって、杜牧はそちらで読んでいたから、規則に外れてはいない、というのがその主張です。たしかに辞書を調べると、「十」には「平」の発音もあって、その読み方を日本の漢字音で表現すると、シンという読み方になるのです。
「南朝四百八十寺」の「十」をシンと読む理由は、大まかにいえば、以上の通りです。しかし、そこまで考えなくてもいいんじゃないの、という人もいます。規則に外れた漢詩というのは、実はいくらでも存在するらしいのです。ちょっとぐらい規則に外れたからといって、その漢詩の魅力が減ずるわけでもありません。最近では、堂々と「なんちょうしひゃくはちじゅうじ」と読む人もいるみたいですよ。 |
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| Q0172 |
「夷」や「戎」という漢字は、「異民族に対する蔑称」という意味以外に、「七福神のえびす様」という意味でも使いますが、この2つはなにか関係があるのですか? |
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七福神のえびす様を表す漢字はいろいろとあって、「夷」や「戎」のほかにも、「恵比寿」「恵比須」などがあります。たしかに「夷」や「戎」は、漢和辞典で調べると「異民族に対する蔑称」の意味がありますし、「えびす」という日本語を国語辞典で調べても、やはり同様の意味があります。
小社『日本の神仏の辞典』では、「えびす様」の語源について、もともと「異邦人や辺境にある者、あるいは未開の異俗の人々などを意味する言葉と深い関連があったと思われる」としています。同書によると、日本には古くから、そういった人々を蔑視の対象とみなすだけでなく、彼らが望外な幸いをもたらしてくれるという信仰があったというのです。
そこで、海の向こうからやってくる神として、えびす様が、まずは漁民たちの信仰の対象として誕生したのでしょう。現在、私たちがお正月には必ず目にするえびす様が、釣り竿と鯛を持っているというのも、そこに起源があります。そして、それがやがて商売繁盛の神様へと発展していったというわけです。
ことばは生き物ですから、ある1つのことばが、時代とともに意味の分裂を起こすことはよくあります。漢字との関連でいえば、同訓意義と呼ばれることばは、もとは1つのことばであった可能性があります。たとえば「書く」と「掻く」はともに「かく」と読みますが、もともと何かの表面を引っ「掻」いて文字を「書」き記したところから、この2つのことばは起源は同じだとする説があります。
そのように、意味が分裂した結果、漢字も別々になってしまった例はたくさんありますが、「えびす」の場合は、意味が分裂してしまったことばが、逆に漢字によっていまでも結びついている、という興味深い例であるといえるでしょう。 |
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| Q0173 |
名字で、「功」の「力」が「刀」になっている字に、もう1つ「刀」を続けて書く方がいらっしゃるのですが、何とお読みするのでしょうか。 |
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調べてみたところ、「くぬぎ」さん、とお読みするようです。これは、もともとは山梨県に多い姓で、ものの本によると、武田信玄から賜った姓だといいます。「椚」と書いて「くぬぎ」と読む苗字の者が、戦いで功績があったので、「功力」という漢字を信玄公からいただいた、というのです。「功力」を呉音で読むとクリキ、それを「くぬぎ」に掛けたのだという話ですが、本当だとすれば、かなり苦しい掛け方です。
その「功力」さんの末裔のだれかが刀が好きで、「力」を「刀」に改めたのだ、というのも、ものの本に書いてあるお話。どこまで本当なのかは、みなさんでご判断ください。 |
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| Q0174 |
常用漢字に限った場合、部首のうち、一番所属文字が多いのは何ですか? |
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Q0072では、『大漢和辞典』所収の50,305字について、部首別のベスト10を発表しましたが、今回は、常用漢字1945字に限って、同じように調べてみました。ただし、部首については漢和辞典によって若干の違いがありますので、以下の数字は、あくまで小社『新漢語林』の部首に従った数字です。
| 1位 |
さんずい |
103字 |
| 2位 |
ひと・にんべん・ひとやね(人) |
98字 |
| 3位 |
てへん |
79字 |
| 4位 |
き・きへん(木) |
75字 |
| 5位 |
いと・いとへん(糸) |
61字 |
| 5位 |
いう・ごんべん(言) |
61字 |
| 7位 |
くち・くちへん(口) |
57字 |
| 8位 |
しんにょう |
50字 |
| 9位 |
つち・つちへん(土) |
46字 |
| 10位 |
こころ・したごころ(心) |
43字 |
驚いたことに大波乱が起きました。前回、晴れて「部首の王様」の称号を贈られた「くさかんむり」が、36字で13位と、ベスト10にも入らないという結果です。代わりに1位に輝いたのは、前回2位の「さんずい」。ただし、『新漢語林』では「水」と「さんずい」は別の部首として扱っていますので、『大漢和』にそろえる意味で「水」の6文字を足すと、合計109字となって、2位との差はさらに広がります。
同様に、前回と比較する意味では、3位の「てへん」には「手」の6文字を加える必要があります。また、同じく10位の「心」に「りっしんべん」の25字を加えると、「心」の順位は一気に5位まで上昇します。
また、「人」は前回10位から2位へと大躍進。逆に前回7位と猛威をふるった「虫」は6字で69位と惨敗。同じく前回8位の「竹」も、22字で22位と大きく順位を下げています。どうやら、現代の都会生活では、草や虫や竹は縁遠くなりつつあるようです。 |
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| Q0175 |
「七」の読み方には、「しち」と「なな」の2つがありますが、この両者はどう違うのですか? |
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子どものころ、「いち、に、さん……」と声に出しながら数えていって、「なな」のところで、友だちに「“なな”は、ヘンやわ」と笑われた思い出があります。何がヘンなのか、そのときは全く分からなかったのですが、笑われたという恥ずかしさだけが残っています。
それから四半世紀が過ぎて、漢和辞典の仕事をするようになってから、何がヘンなのかがようやく分かりました。「いち、に、さん……」といのは全て音読みで、「なな」は訓読みなのです。つまり、子どものころの私の数え方は、音読みの中に1つだけ訓読みを交えていたわけで、友だちは、その語感の中にヘンなものを感じ取ったのに違いありません。
以上のように、「なな」というのは「七」という漢字の訓読みなのですが、それでは「しち」は何かというと、ご想像どおり、音読みということになります。つまり、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、なな」と数えるのは、ひっくり返せば、「ひとつ、ふたつ、みっつ……」と訓読みで数えていって、7番目のところだけ「シチつ」と音読みするのと似た状況になります。こちらを想像すると、私の幼年時代の友だちの笑いもむべなるかな、という思いがします。
それにしても、その友だちが漢字の音読み・訓読みについて正確な知識を持っていたわけではないでしょう。彼はその語感から直感的に「ヘンやわ」と感じたわけで、そのことを思い出すにつけて、彼の方が、今の私の仕事にふさわしい人材なのではないか、などと思ってしまうのです…… |
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| Q0176 |
東京のことを「東亰」と書いてあるのを見たことがあるのですが、この「亰」は「京」とどう違うのですか? |
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結論から申しますと、この「亰」の字は、「京」の異体字である、とされています。つまり、読みも意味も、「京」と同じである、ということです。
ただ、異体字とはいってもこの字体はかなり古くからある由緒正しい字体です。角川書店の『書道大字典』を調べてみると、漢王朝や唐王朝のころの中国の書家の筆跡は、ほとんど、この字体を用いています。ここからすると、少なくともそのころの書写の字体としては、こちらの方が一般的であったように想像されます。
その傾向は、明治時代の日本にまで続いていて、このころに刊行された書籍の表紙や扉などには、「東亰」と書いてあるものをよく見かけます。有名な例として、『東京朝日新聞』の例があります。同紙は、1888(明治21)年に創刊されて以来、1940(昭和15)年に名称が『朝日新聞』に変わるまでの間、その題字にはずっと「東亰」の字を用いていました。のみならず、復刻版を調べてみると、少なくとも初期の間は、本文でも「亰」を用いていますから、明治の中ごろの段階では、「京」ではなく「亰」の字を用いることが奇異ではなかったのでしょう。
その状況が変化してくるのは、おそらく、明治も終わり近くになって、国定教科書において「京」の字体が採用されたことによるのではないでしょうか。その後、現在の『常用漢字表』に至るまで、公にされた種々の漢字表の中に、「亰」の字を見いだすことはできなくなります。
このように、今日、私たちが当然と思っている字体も、調べてみると、その「当然」の歴史は意外と浅いことが多いのです。そこに、さまざまな字体が乱立していた状況を少しずつ整理してきた、近代日本人の努力の歴史を見るべきではないかと思います。 |
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| Q0177 |
「歯」という漢字は、「止」という部分と下の部分のあいだに隙間があるのとないのと、どちらが正しいのでしょうか。 |
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問題の部分に隙間があると「歯抜け」の意味、隙間がないと「健康な歯」の意味、というふうにでもなればおもしろいのですが、残念というかありがたいことにというか、そんなことはありません。当館の基本的な考え方からいきますと、問題の部分によって意味が変化したり、別の字になってしまったりしない以上、どちらでもよい、ということになります。
ただし、しいてどちらかを規範とせよ、とおっしゃるのであれば、隙間がある方になるでしょう。と申しますのは、明朝体活字のほとんどは隙間がある方のデザインになっていますし、手書きの場合の基準となりうる教科書体活字も、同様だからです。
図は、歯抜けの口をそのまま描いたあまりうまくない絵のように見えますが、実は「歯」の甲骨文字です。この漢字は、甲骨文字の段階では、このようにわかりやすい象形文字だったのです。それがやがて発音を明示するための「止(シ)」と組み合わさって、現在の字形になったといわれています。そんな経緯を考え合わせても、「止」の部分を独立させておいた方が、成り立ちがわかりやすい、ということもできるかもしれません。 |
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| Q0178 |
「占地」と書いて、何と読むのですか? |
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これは、シメジですね。「香りマツタケ、味シメジ」というときの、あのおいしいキノコのシメジのことです。「占」は、「うらなう」という読み方以外に、「占める」と書いて「しめる」と読む場合があります。「占地」をシメジと読むのは、この「しめ」から来ているのに違いありません。
シメジを漢字で書く書き方には、他に「湿地」があります。こちらはおなじ「しめる」でも、水気を帯びることを表す「湿る」から来ていると思われます。キノコとは湿気の多いところに生えるものでしょうから、こちらの表記にはひょっとすると根拠があるかもしれませんが、「占地」の方は、純然たる当て字と考えてよいでしょう。
ちなみに、同じキノコでも、おみそ汁に入れるとおいしいナメコの方は、漢字では「滑子」と書きます。ナメコのナメというのは、あのぬらぬらした感じを表すことばで、一方、「滑」という漢字は「すべる」という意味ですから、「滑子」の場合は、当て字ではないと思われます。 |
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| Q0179 |
「贔屓(ひいき)」という熟語は中国語にはないそうですが、もともとどういう意味なのでしょうか? |
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このことばを『大漢和辞典』で調べてみますと、1番目に「力を用いるさま」という意味を掲げ、2番目は「大きい亀」、3番目に「目をかける」という説明になっています。私たちが現在つかっている「ひいき」の意味はこの3番目になります。
そこで、もう少し詳しく3番目の意味をみると、「翠雨軒詩話(すいうけんしわ)」という本と、「尺素往来(せきそおうらい)」という本からの用例が挙がっています。ところが、この2つの本は、ともに日本で書かれた本なのです。このことからすると、中国語に「贔屓」という熟語がないわけではありませんが、それは私たちが現在使っている意味とは違うのではないかと思われます。
ただし、小学館の『日本国語大辞典』によると、平安時代の末期(12世紀の終わりごろ)に書かれた『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』という辞書には、「贔屓」に対して「ヒイキ チカラオコシ」という記述があるそうです。これから判断すると、このことばは日本でももともとは「力を用いるさま」という意味で用いられていたのではないかと思われます。それが時代とともに、「片方にだけ力を用いるさま」という意味で使われるようになり、「目をかける」という意味に変化していったのでしょう。この意味での用例は、同じく『日本国語大辞典』によると、14世紀には現れてくるようです。 |
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| Q0180 |
「聴」という漢字は、「十四の心で耳を傾ける」という意味だと聞きましたが、「十四の心」とは何なのでしょうか? |
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ありますねえ。こういうお話。校長先生のお話とか、人間関係に関するセミナーの講師の先生のお話などで、よく話題にされるようです。「十四の心で耳を傾けるつもりで、他人の話をよく聴くことが大切です……」
この「十四」とは、十四人分に相当するぐらいの広い心だとか、人の心がめまぐるしく変化することをたとえた数字だとか、いろいろと説明されているようです。しかし残念なことに、「聴」の字は、漢字の成り立ちからいって、「十四」とは基本的に関係がないようです。
この漢字の字源的な解説は、例によって諸説あるようですし、なかなかむずかしいようですから詳しくは説明しませんが、この字の「四」の部分は、字源的には「目」が横になった形だと考えるのが正しいようです。ですから、「聴」を「十四の心に耳を傾ける」という意味だとするのは、あまり根拠のある話ではないのです。
しかし、がっかりしないでください。「聴」の右側の部分は、「徳」の右側の部分でもあります。そしてこの部分は、実は「徳」の異体字であるともされているのです。だとすると、「聴」という漢字は、「徳をもって耳を傾ける」という意味だ、と理解することは可能です。徳のある人は、人の話をよく聴くことでしょう。したがって、「聴」という漢字を、人の話をよく聴きましょうというお話の中で話題にすることは、それはそれで、根拠がないわけではないのです。
ちなみに、この字の旧字体は「聽」という形で(拡大して図に示しておきます)、右半分は「十」と「四」と「一」と「心」から成り立っていて、この時点で、「十五の心」になってしまいます。「十五の心」といえば、石川啄木。『一握の砂』をポケットに青春時代の一時期を過ごした私としては、「空に吸はれし十五の心――」というような気分で、人の話に耳を傾けたいと思います。 |
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| Q0181 |
「蟲」という漢字は「むし」と読むようですが、「虫」とは何か意味が違うのですか? |
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「虫」の部首の字には、気持ち悪い意味の漢字が多くていやになるのですが、この「蟲」という字も、小さなムシがたくさん集まっている様子を表した会意文字で、あんまり想像したくない風景です。
しかし、現在、私たちが「虫」という漢字を見て思い浮かべるのは、ふつう、そうした小さなムシのことではないでしょうか。実は、もともとはそういった小さなムシのことを表す漢字は「蟲」の方で、「虫」はまた別の意味を持っていたのです。
話はややこしいのですが、「虫」は甲骨文字では図のように書かれており、マムシの象形文字だとされています。つまりこの「虫」の字は、マムシに代表されるような、ヘビのことを表していたようなのです。発音もチュウではなく、キという音だったとされています。
ところが、かなり早い段階、紀元前の昔から、本来ヘビを表す「虫」の字を、ムシの意味で用いる例が出てきます。ムシを表すならば元来、「蟲」を用いなくてはならないわけですが、やっぱり、「虫」を三つ書くのはめんどくさかったのでしょう。そして現代の日本では、当用漢字が制定された際、ムシのことを表すときには、「蟲」の字の代わりに「虫」の字を用いることが正式に定められるに至りました。ムシの世界は「虫」に席巻されている、といえましょう。
このように、「虫」と「蟲」の関係は、少々複雑ですので、注意が必要です。 |
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| Q0182 |
1字めを音読み、2字めを訓読みする読み方を「重箱読み」、その逆を「湯桶(ゆとう)読み」というようになったのは、いつごろからなのですか? |
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「重箱読み」「湯桶読み」ということばそのものの歴史については、明治書院の『漢字講座3 漢字と日本語』の中に、新野直哉先生による詳しい考証があります。それに従ってご説明すると、次のようになります。
音読みと訓読みが混じった読み方を表すことばとして最初に表れるのは、室町時代、15世紀ごろの「湯桶文章」ということばです。やがて江戸時代に入ると、「湯桶文章」に代わって「湯桶言葉」「湯桶文字」といったことばが表れてきます。私たちにもなじみの深い「湯桶読み」ということばが登場してくるのは、18世紀に入ってからのことになります。
ところが、これらのことばには、私たちが現在使っている「湯桶読み」とは違う点がありました。それは、「音読み+訓読み」であろうと、「訓読み+音読み」であろうと、順番には関係なしに全て「湯桶文章」「湯桶言葉」などと呼ばれた、ということです。
一方の「重箱読み」ということばが登場するのは、19世紀に入ってからです。そして驚いたことに、こちらも、順序は関係なしに、音読みと訓読みが混じった読み方全てを表していたらしいのです。つまり、この段階では、「重箱読み」と「湯桶読み」は対義語の関係ではなく、むしろ同義語の関係にあった、ということになります。
この状態は、昭和に入るまで続きます。現在私たちが使っているように、「音読み+訓読み」の順序のものを「重箱読み」、「訓読み+音読み」の順序のものを「湯桶読み」と呼ぶのが定着するのは、昭和も10年ごろ以降のことだそうです。
さて、以上からすると、もともと「湯桶読み」と「重箱読み」とは別々に発生したことばだということになります。おそらく、学術用語としてはいずれはどちらかに統一されてしかるべきだったのでしょうが、それぞれのことばが、たまたま「湯桶」は「訓読み+音読み」、「重箱」は「音読み+訓読み」であったがために、うまい具合に住み分けができたのではないかと思われます。偶然としてはちょっとできすぎた偶然、といえるかもしれません。 |
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| Q0183 |
左上に「口」、右上に「人」、その下に「土」と書く漢字がありました。なんと読むのでしょうか? |
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これは、「坐」という字の異体字です。音読みはザ、意味としては「すわる」という意味で、「座」とほぼ同じです。
例によって『書道大字典』(角川書店)を調べると、図のように、この字形のほかに、両方の「人」が「口」になっているものを見いだすこともできます。「口」という形が人間を表す例は他にもありますから、後者の字形は、それほど驚くほどのものではありません。むしろ、片方だけが「口」になっている字形の方が不思議ですが、その理由は、よくわかりません。
よくわからないものの、片方だけ「口」になっている字形は意外とポピュラーで、現在でも、身近で見つけることができます。たとえば、明治製菓のレトルトカレー「銀座カレー」の「座」の字は、「广」とこの字から成っています。なにゆえにそんな字を選んだのか、その理由を担当者にお聞きしてみたい気もしますが、そんなことより気になるのは味の方、とおっしゃる方は、お近くのスーパーまで、さあ、お出かけください。 |
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| Q0184 |
「帰」という漢字の部首は、「巾」にしている辞典と「りっとう」にしている辞典とがあるのですが、どちらが正しいのですか? |
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現代の日本で編集されている漢和辞典は、基本的にその部首を『康熙字典(こうきじてん)』に拠っています。しかし、『康熙字典』に出てこない漢字については、それぞれの辞典の編者がそれぞれの判断をして部首を決めるので、場合によっては食い違いが生ずることがあるのです。この「帰」という漢字も、その代表的な例であるといえます。
と申し上げますと、こんな簡単な漢字も載っていないなんて、『康熙字典』も使えない辞書だな、とお思いになる方もいらっしゃるやもしれません。しかし、それは早とちりというもの。「帰」という漢字はもともと「歸」と書くのが由緒正しい字体で、略字の「帰」が大手を振って使われるようになったのは、当用漢字の制定以降のことです。18世紀に作られた『康熙字典』の知ったことではありません。『康熙字典』からすれば、「帰」など、載せてやるほどの字体でもなかったのでしょう。
さて、このように当用漢字の制定によって『康熙字典』にない字体が正式に使われるようになったケースに対しては、部首は、もともとの正字体(旧字体)の部首に従うのが原則です。ここには、編者によって判断の分かれる余地はありません。そこで「帰」も「歸」と同じ部首に入れてやればいいのですが、そうは問屋が卸さないのです。というのは、「歸」の部首は「止」ですが、「帰」の字形のどこを探しても、「止」という形は見つからないからです。
というわけで迷子になってしまった「帰」をどの部首に所属させるかは、編者の判断に委ねられることになります。小社の漢和辞典では、伝統的に「巾」の部首に所属させていますが、その理由は、「帚」という漢字の部首が、『康熙字典』以来「巾」であることにあります。しかし、目立つということでいけば「リ」の方でしょうから、「りっとう」を部首とする方が、検索の上からすると便利だということもできるでしょう。 |
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| Q0185 |
よく国語の授業でも問題になる「雰囲気」という言葉の読みですが、「フインキ」と読むのはやはり間違いなのでしょうか? |
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この問題、むずかしいですよね。「雰囲気」&「ふいんき」でネットで検索を掛けてみると、ものすごい数のヒットがありました。みなさん、気になっているようです。
漢字の読み方、という側面から考えると、「雰」の音読みはフン、「囲」はイですから、当然フンイキが正しい、ということになります。しかし、実際にはフインキと発音している人が多く、仮名で書く場合にはそのまま書いてしまう人も多いようです。ちなみに、「google一本勝負」というサイトでは、この両者がどちらが多いかという対決を行っていて、その結果は「ふんいき」約6,950件、「ふいんき」約5,420件となっていました。
漢字からすればフンイキなのに、どうしてフインキになってしまうのかについては、いろいろな議論があるようですが、根本にはンイという音の並びが発音しにくい、ということがあるようです。そのため、この場合のンの音は、口をしっかり閉じたンの音ではなく、息を鼻から抜くような弱い音になってしまい、そのため、フーイキあるいはフイーキに近い発音となってしまうようです。ここまでくれば、フインキまであと一歩、というわけです。
似たような例としては「全員」をゼイインと発音したり、「原因」をゲイインと発音したりすることが挙げられるそうです。そう指摘されてみると、自分もゼイインと発音しているような気がしてきますし、亡くなったいかりや長介さんも「ゼイイン集合!」と発音していたような気までしてきますから、不思議なものです。
しかし、話しことばとして「全員」をゼイインと発音する人はいても、書きことばとして「ぜいいん」と書くことはなさそうに思われます。とすると「雰囲気」を「ふいんき」と書く人が多いのは特殊な例で、その背景には、「雰」という漢字が、あまりポピュラーではないという事情もありそうです。 |
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| Q0186 |
病名で、白内障や緑内障の「障」と、失語症や自立神経失調症などの「症」とは、どういう違いでつけられているんでしょうか? |
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なかなか意表を衝いたご質問ですね。「症」は、「やまいだれ」が付いていることからもわかるように、病気に関係する漢字なのですが、「障」の方は、どうしてこの字が病気の名前に使われているのか、考えてみたこともありませんでした。
調べてみますと、白内障ということばは、実は「白」と「内障」とから成り立っているようです。『大漢和辞典』には「内障眼(ないしょうがん)」という漢語が載っていて、これはある種の眼の病気のことで、和語でいうと「そこひ」だという説明があります。といわれても、「そこひ」は現在ではあまり使われないことばなので、すぐさま納得、というわけにはいきませんよね。
そこで、国語辞典などで調べてみると、「そこひ」は漢字で書くと「底翳」で、「底」は眼球の中のこと、「翳」は影のことで、眼球の中に影のようなものが見える病気一般を指しているようです。そして、その影の色によって「しろそこひ」「あおそこひ」「くろそこひ」の3種類があるそうです。
興味深いことに、「内障」と書いて「そこひ」と読む例も、15世紀ごろからあるそうです。そこからしても、昔「しろそこひ」と呼ばれていたものが今の「白内障」、「あおそこひ」が「緑内障」、「くろそこひ」が「黒内障」であることは明らかなように思われます。つまり、これらの「障」は、もともと、「内障」という漢語に由来しているわけです。
一方の「失語症」ですが、こちらは読んで字のごとく、「ことばを失う病気」という意味です。英語では aphasia というのですが、この a- は、何かが欠如していることを表していて、phas はことばのこと、-ia は名詞であることを表しているのだという話を読んだことがあります。とすると、aphasia と失語症とは全く同じ構成をしていることばだということになり、そこからして、失語症は明治以後の翻訳漢語ではないかと思われます。
「白内障」が少なくとも500年以上の歴史があるのに対して、同じショウでも、「失語症」はまだまだ生まれたてのことばである、といえそうです。 |
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| Q0187 |
「凛(りん)」の右下の部分が「示」ではなく「禾」になっている字が、パソコンで出ないのですが、どうしてでしょうか? |
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それは「凜」という字のことですね? ご質問のとおり、普通のパソコンのかな漢字変換では、この字を簡単には表示できません。しかし、だからといってこの字がJIS漢字に入っていないというわけではないのです。そこには、ちょっとした事情があるのです。
「示」の「凛」と「禾」の「凜」とは、異体字の関係にある漢字同士です。この字の右半分の「禀」または「稟」という字は、もともと穀物倉庫を表す漢字なので、その意味からすると、神様に関係する「示」ではなく、穀物に関係する「禾」を含んでいる方が本来の形だと考えられています。そこで、漢和辞典では、「示」の「凛」と「禾」の「凜」とについても、後者の方を正字として扱っています。
さて、1990年に人名用漢字が拡張された際、この字も追加されることになりました。人名用漢字は、異体字のある場合には原則として正字の方を採用しますから、当然のように「禾」の「凜」が新しく人名用漢字となったのです。ところが、この時点ではJIS漢字には「示」の「凛」しか収録されていませんでした。人名用漢字に入っているものがパソコンでは使えない、というわけにはいきません。そこで、時を同じくしてJIS漢字にも「禾」の「凜」が収録されることになりました。その際、同じく新たに人名用漢字となった「熙」という字も、JIS漢字に追加されています。
しかし、多くのパソコンのかな漢字変換ソフトは、この2文字の存在を無視しているようなのです。この2文字を普通の変換で入力することはできません。入力したいときには、MS-IMEならIMEパッドで、ATOKなら文字パレットで、手書きや部首や画数などの方法で探し出してやらなくてはなりません。そのため、多くの人が、この2文字はパソコンで入力できないと勘違いしているのです。
由緒正しい「正字」であり、人名用漢字にも登録されているにもかかわらず、パソコンの世界ではその存在をきちんと認知されていないこの2文字。私はかねがね、この2文字がとても不憫でなりませんでした。かな漢字変換ソフトを作っているみなさんには、この2文字にちゃんと日の目を見させて欲しいものです。
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| Q0188 |
漢和辞典を調べると「体」の旧字体は「體」だと載っていますが、どうしてこんなに違う字体が新字体になったのですか? |
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たしかに「體」は23画、「体」は7画ですから、画数だけ見ても大きく違いますね。当用漢字の新字体が制定されて、書くのが楽になった漢字の代表格だといってもいいでしょう。
この「体」という漢字は、もともとは「からだ」という意味の漢字ではなく、「劣る」とか「荒い」という意味の漢字で、音読みもホンだったと言われています。しかし、近世に編纂された日中両国の異体字辞書には、「体」という字が「體」の俗字として多く採録されていますから、早ければ12~13世紀ごろには、この字を「體」の代わりに用いることがあったのではないかと推測されます。
さて、ではどう省略していけば「體」が「体」になるのでしょうか。おそらく、その過程には「軆」「躰」という字体が介在していたのではないかと思われます。まず、どこかのめんどくさがり屋さんが、「體」を少し省略して、「軆」という字体を生み出したのでしょう。「骨」も「身」も同じようなものですから、あるいは省略という意識ではなかったのかもしれません。
次に、やはりどこかのめんどくさがり屋さんが、「軆」を省略して「躰」としてしまったのでしょう。「からだ」と言えば「身」の「本(もと)」ですから、画数が少ないだけではなく、意味的にもうまい省略です。江守賢治著『漢字字体の解明』によれば、この「躰」の字は、当用漢字の制定以前、手書きの世界ではよく使われたものであったようです。
「躰」まで来てしまえば、「体」まではそんなに遠い距離ではありません。3番目のめんどくさがり屋さんが登場して、最後の総仕上げを行ったというわけです。
以上は1つの説明ですが、そんな複雑なことを考えなくても、1人の偉大なめんどくさがり屋さんを登場させることで、問題を一挙に解決してしまうこともできます。つまり、「からだ」というのは「人」の「本体」だというわけで、最初から「体」という字を創作してしまった、めんどくさがり屋さんの英雄を想定すればいいのです。
さて、どちらの説を採るにせよ、現代に生きる私たちは、こんな簡単な字を作って手書きのめんどうを軽減してくれためんどくさがり屋さんたちに、感謝すべきなのでしょうか。それとも、伝統的な字体を壊した張本人として、彼らを非難すべきなのでしょうか。一概には結論の出ない問題だと思います。 |
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| Q0189 |
「くさかんむり」が4画になっている漢字を見かけることがありますが、これを3画で書くと、間違いですか? |
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おっしゃる通り、ちょっとした漢和辞典の「くさかんむり」のところを調べてみると、図のように「くさかんむり」の真ん中が切れて4画になっている漢字がたくさん見つかります。ふつう私たちが学校で習う「くさかんむり」は3画ですから、ご質問のような疑問をお持ちになるのも当然のことでしょう。
この問題について、一般には、昔は「くさかんむり」は4画だったんだ、と説明されています。当用漢字の新字体が制定される以前は「くさかんむりは」4画で書くのが正しかったのだ、と。だから今でも、常用漢字に含まれているものは「くさかんむり」は3画で書くけれど、そうでないものは4画で書くのが正しいのだ、と。
この説明は、もちろんウソではありませんが、正確でもありません。実は、昔でも、「くさかんむり」は4画が「正しい」というのは漢和辞典を中心とする世界だけで、少なくとも一般の活字の世界では、新聞や書籍で使われる「くさかんむり」は、圧倒的に3画が多かったのです。文化庁の調査によると、当用漢字の制定以前の活版印刷の活字を調べたところ、4画の「くさかんむり」はほとんど見出せなかったそうです。
そんなわけですから、「くさかんむり」の3画と4画にこだわるのは、あまり意味のないことだと思います。漢字の字形は、時代とともに変化しています。「くさかんむり」だって、もっともっと昔になると、「艸」という形をしていて画数も6画になってしまうのです。画数にこだわってどれかが「正しい」と決めつけるのではなく、そういう大きな時間の流れに思いをはせてみる方が人生を豊かにしてくれるのではないかと、私には思われるのですが、みなさんはいかがでしょうか? |
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| Q0190 |
「念頭においておく」などの「おいておく」は、漢字を使ってどのように書くのが正しいのでしょうか? |
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なかなかややこしい問題ですね。可能性としては「おいておく」「置いておく」「おいて置く」「置いて置く」の4つが考えられます。
国語学の世界では、「~しておく」とか「~していく」「~してみる」などの「おく」「いく」「みる」は、なにかを置くとか、どこかへ行くとか、なにかを見るといった具体的・実質的な意味が希薄なことばである、と言われています。そして一般には、これらのことばについては漢字では書かないという風潮があるようです。その風潮に従えば、「念頭に置いておく」と書くのがよろしい、ということになるでしょう。
どうしてそういう風潮があるのか、ということになりますと、きちんとした決まりごとがあるわけではないようです。1981(昭和56)年、文部省が公用文を作成する上での参考とするために省内に配布した「文部省用字用語例」という文書には、これらのことばはひらがなで書くのがよろしい、と書いてあります。しかし、これは文部省内の公文書に関することですから、参考にはなりますが、私たちのふだんの国語生活を拘束するものではありません。
おそらく、漢字で書くと具体的な意味をイメージさせやすいので、こういった具体的・実質的な意味が希薄なことばを書き記す場合には、漢字は避けられる傾向があるのでしょう。これも、漢字のイメージ喚起力のなせる技だと言うこともできます。 |
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| Q0191 |
名前の漢字で「示」+「右」という漢字がありますが、これをパソコンで表示することはできないのでしょうか? |
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この漢字はかつて、人名用漢字の許容字体と呼ばれていた漢字の1つです。以前の人名用漢字の中には、その字の旧字体の使用が認められているものがありました。その旧字体のことを、許容字体というのです。
この字の場合、当時、人名用漢字としてふつうに認められていたのは「祐」という字体です。これに対する旧字体が、「へん」のカタカナのネに似た部分を「示」に置き換えた漢字なのです。
人名用漢字の許容字体は、全部で205文字ありましたが、その中にはふつうのパソコンで表示することができる、いわゆるJIS漢字の第1・第2水準に入っていない漢字が、少なからずあって、この「示」+「右」の漢字も、その1つなのです。人名での使用を認められているのにパソコンでは表示できない、というのも妙な話ですが、文句を言っても始まりません。
2004年の人名用漢字の改定で、許容字体はすべて、人名用漢字本体へ「格上げ」されました。JIS漢字の第3・第4水準には、かつての人名用漢字許容字体がすべて含まれていますので、いずれ、これらの漢字をパソコンで自由に表示できるようになる日が来るものと思われます。しかし、今のところは、Q0071やQ0144で紹介したような外字フォントを使って表示しておくのがよいと思われます。
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| Q0192 |
「雨」かんむりに「龍」と書く字を見つけたのですが、なんと読むのでしょうか? また、パソコンで表示できますか? |
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早速『大漢和辞典』を調べてみると、この字の音読みはロウで、2つ重ねてロウロウと読んで、雷の音を表すとあります。また、レイと読むこともあって、その場合は「霊」の異体字となるようです。
この漢字は、JIS漢字の第1・第2水準には入っていないので、ふつうの方法でパソコンで扱うことはできません。しかし、ユニコードには入っているので、ユニコード対応のOSであれば、この漢字を扱うことができます。そのあたりの事情については、Q0070、Q0097、Q0105で散発的に触れていますので、そちらを参照してください。
ついでですが、この漢字はJIS漢字の第4水準に登録されています。そこで日本規格協会『JIS漢字字典』を調べてみると、『大漢和』で出てきた意味の他に、人名としての用例があるようです。「惺」という字とこの漢字を続けて書いて、「しずか」と読む名前だというのですが、どうしてそういう読み方になるのか、詳しいことはよくわかりません。 |
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| Q0193 |
「椛」という漢字がありますが、この中の「花」の「ヒ」という部分は、横棒が突き出るのと突き出ないのと、どちらが正しいのですか? |
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「椛」という字に限らず、「化」という漢字の「ヒ」の部分は、もともとは横棒が突き出る形が正しいとされています。実は図のように、突き出る「ヒ」と突き出ない「ヒ」は別の字で、突き出る方は音読みはカ、変化するという意味を表し、突き出ない方は音読みヒ、さじ(スプーン)の意味を表す漢字なのです。
これまでにも何度か書いたことがあるのですが、当館では漢字の字体について、「別の字にならなければ細かいことにはこだわらなくてよい」と考えています。そんなアバウトな当館ですら、突き出る・突き出ないという細かい差異に気を配らざるをえないのが、この2つの「ヒ」の問題なのです。まったく、困ったものです。
さて、音読みがカで、変化するという意味を表す、突き出る方の「ヒ」に、「にんべん」を付けて生まれたのが「化」という字です。このことは、この字の音読みがカであることからわかります。さらに「化」に「くさかんむり」が付いたのが「花」であることは、やはりこの字も音読みがカであることからわかるというものです。
だとすると、「化」も「花」も、「ヒ」の横棒は突き出なくてはならないはずです。しかし、私たちが学校で習う字では、これらの「ヒ」の横棒は突き出ません。それはなぜかと言いますと、例の当用漢字というものが制定されたときに、突き出る「ヒ」と突き出ない「ヒ」がいっしょくたにされてしまったからなのです。つまり、突き出る「ヒ」の「化」「花」は旧字体、突き出ない「ヒ」の「化」「花」は新字体ということになります。文字だけだとややこしいですから、「化」の旧字体を、画像として掲げておきます。
ここでようやく、「椛」の話になります。この字は「もみじ」と読んだり「かば」と読んだりする国字だとされています。国字といえども、この字が「花」に「木」へんがついて生まれたことは明らかです。そこで問題なのは、「ヒ」の形について、新字体の「花」と同じにするのか、旧字体の「花」と同じにするのか、ということです。
結論から申しますと、漢和辞典の世界では、当用漢字(常用漢字)に入っていない漢字については、当用漢字による字体の変更の影響は及ぼさないことにしています。「椛」は現在の常用漢字には入っていませんから、この字の場合、「ヒ」の部分は「花」の旧字体と同じく、横棒が突き出る形としているのです。漢和辞典的には、突き出る形が「正しい」というわけです。
ああ、ややこしい。もう、「突き出る」「突き出ない」ばっかりで、読み返すのもいやになりそうです。とはいえ、この字に関しては、突き出る・突き出ないは意味のある違いです。意味のある違いにはこだわり、意味のない違いにはこだわらない、それが漢字に対する適切な姿勢なのではないかと思います。 |
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| Q0194 |
「防守」という熟語がありますが、これは「防いで守る」という意味でしょうか。それとも「守るために防ぐ」という意味でしょうか? |
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むずかしいことばをご存知ですね。小社の『明鏡国語辞典』にも『新版漢語林』にも載っていませんでした。もちろん、『大漢和辞典』には「ふせぎまもる」という意味だと載っていますし、岩波書店の『広辞苑』にも同様の記述があります。
さて、漢字2字からなる熟語の構造については、一般に、次のようなパターンがあるとされています。
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主語と述語の関係からなるもの。(日没・雷鳴など) |
| 2 |
動詞と目的語の関係からなるもの。(発言・飲酒など) |
| 3 |
修飾と被修飾の関係からなるもの。(大河・高山など) |
| 4 |
似た意味の漢字を並列したもの。(燃焼・分解など) |
| 5 |
接頭語・接尾語が付属したもの。(不発・自然など) |
これら以外にも、「綿綿」「髣髴(ほうふつ)」などのように似たような発音の2字を重ねて擬態語・擬音語のような働きをするものや、「琵琶」「奈落」のような外来語の当て字として成立したものもありますが、そういう特殊なものを除けば、おおむね、熟語の構造はこの5つに分けられると思われます。
そこで「防守」ですが、これは上の4に相当するのではないかと思われます。「防ぐ」というのも「守る」というのも、意味としては似たようなものだからです。「守るために防ぐ」が該当するとすれば上記の2でしょうが、だとすると「守りを防ぐ」という意味になってしまい、ちょっとおかしなことになると思います。 |
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| Q0195 |
「秘訣」の「訣」という字を辞書で調べると、「わかれる」という意味だと書いてあります。そんな字がどうして「秘訣」という熟語に使われているのですか? |
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「秘訣」という熟語は、思いのほか由緒正しいことばで、『大漢和辞典』を調べると、8世紀、中国を代表する詩人の1人、杜甫(とほ)の作品に用例があるようです。そして、そのころからすでに、現在と同じように、「人に知られていない重要な方法」という意味で使われていたようです。
一方、「訣」という字はご質問にあるとおり「わかれる」という意味で、「訣別」とか「永訣」とかいう熟語は、その意味でこの字が使われる例です。しかし、この字には「言」べんが付いていることからもわかるように、ことばに関係する意味があります。「別れのことば」という意味があるのです。
中国の古典の1つ、『列子(れっし)』というおもしろい書物に、ある占い師の話が出てきます。その人は死に臨んで、自分の子どもに占いの「訣」を伝えたのですが、子どもの方はその占いの方法を覚えてはいたけれど、実行してもうまくいかなかったそうです。ところが、その子どもからその方法を教えてもらった人が実行してみると、うまくいった、というのです。
この本がいつごろ書かれたのかについては定説がないのですが、少なくとも杜甫よりは数百年以上前であることは確かです。そして、ここでの「訣」の使われ方は、「別れのことば」という意味と、「人に知られていない重要な方法」という意味の両方が重なっているように読むことができないでしょうか。
もしかすると、「秘訣」というのは、人と別れるにあたって、それも死別するにあたって伝える、とても重要なものだったのかもしれません。 |
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| Q0196 |
「魚」や「点」の「よつてん」は「大」と書くことがありますが、「黒」や「薫」の「よつてん」を「大」とは書かないように思います。なぜなのでしょうか? |
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「よつてん」とは、漢字で書くと「四つ点」で、点が4つ並んだ形をした部首を指す名前の1つです。この部首は、もともとは「火」という形から変形したものなので、「れんが(連火)」とか「れっか(烈火)」とも呼ばれています。したがって、漢和辞典を調べてみればわかりますが、「よつてん」を含む漢字は、何らかの形で「火」と関係した意味を持っていることが多いのです。
ところが、「魚」という漢字は見てのとおり、サカナを縦に置いてみて図案化した象形文字です。ですから「よつてん」の部分はしっぽにあたるわけで、部首の「よつてん」とは全く関係がありません。正確には、「『魚』の『よつてん』」という言い方そのものもちょっとおかしい、と言うべきでしょう。
この「よつてん」を「大」と書く漢字は、基本的には略字の類に属しています。つまり、正式な漢字はやはり「魚」「点」であって、点を4つ書くのがめんどくさいという人が、省略形として「大」を採用した、というわけです。
というわけで、もともと正式な字ではありませんから、ある漢字では「大」と書いてもよいが、ある漢字ではいけない、というような決まりがあるわけではありません。ご質問のとおり、「黒」や「薫」の「よつてん」を「大」と書く例には、たしかにあまりお目にはかかりません。しかし、どこかのだれかがそう書いていたとしても、バランスが相当悪い漢字にはなりますが、びっくりすることではないでしょう。
ただし、「魚」の「よつてん」を「大」と書くのは、単にめんどくさいからというだけでもないようです。写真はあるお寿司屋さんの軒先にあった提灯ですが、「よつてん」が「大」になった「魚」は、このようにお寿司屋さんで使われることが多いのです。そしてその理由として、「ネタが大きい方がいいから」という、いわば一種の縁起かつぎなのだ、という話を聞いたことがあります。
先にご説明したとおり、「魚」の「よつてん」はしっぽでした。そこで私に言わせれば、いくらしっぽが大きくったって、肝腎の身が大きくなければ、寿司ネタとしてはどうしようもないんじゃないか、ということになるのですが、みなさん、どう思われます? |
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| Q0197 |
「所」の部首は「戸」ですが、左にあるのにどうして「とかんむり」というのですか? |
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漢和辞典で「戸」の部首に属している漢字を探してみると、
「戸」「戻」「所」「房」「扁」「扇」「扈」「扉」
などが見つかります。これらを一目見ておわかりのように、「戸」という形が左、つまり「へん」の位置に来る例はきわめて少ないのです。一般によく使われている漢字としては、「所」だけだと考えて言い切ってしまってもいいでしょう。
そこで、「戸」が部首になるときの呼び名としては、昔から「とかんむり」あるいは「とだれ」というのが一般的だったようです。Q0086でもご紹介した室町時代末期の辞書『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』では、「トカムリ」としてこの部首を載せています。
そこで「所」の場合も、部首は「とかんむり」「とだれ」と呼ばれるのが一般的なわけですが、たしかにこれはおかしな話です。長いものには巻かれろ式に生きていくのもいいのですが、それでは飽き足りないという方は、「かんむり」や「たれ」が付かない呼び名が欲しいところでしょう。
その願望を満たす呼び名としては、単に「と」と呼ぶか、「とびらのと」と呼ぶのがよろしいかと思います。どちらも、小学校の教科書や参考書などで採用されている呼び名です。 |
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| Q0198 |
「夕陽」と「夕日」、どちらが正しい「ゆうひ」なのですか? |
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手元にある国語辞典をいくつか調べてみますと、ほぼ全てが、「ゆうひ」という項目で「夕日」「夕陽」の両方を挙げています。したがって、国語辞典的にはどちらも「正しい」としてよさそうです。
しかし、『常用漢字表』で認められている音訓の中には、「陽」を「ひ」と読む訓読みはありません。ここからすると、文部科学省的には「夕日」の方が正しい、ということになりそうです。
漢字の意味、という側面から見ますと、「日」にも「陽」にも、それぞれ英語の the Sun の意味がありますから、どちらも間違いとはいえません。ただし、「日」の方には day の意味もあって、「日付」「元日」など「日」がその意味で使われる熟語も多いので、1文字ですぐさま the Sun をイメージさせるようなところはあまりなさそうです。一方、「陽」の方は、the Sun 以外になじみ深い意味があまりないのに加え、「太陽」を始め「陽気」「陽春」などの熟語がありますから、1文字で the Sun のイメージを喚起する力がありそうに思います。実際に使い分ける際には、そのあたりを考えてみるのも、おもしろそうです。
なお、蛇足ですが、往年の名作青春ドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」、あれは「夕日」だったか「夕陽」だったか、と思ってインターネットで調べてみたところ、「夕陽」派が多く、「夕日」は少数派でした。これも「夕陽」の方がイメージ喚起力が強いからかな、と思っていると、ところが実際は、「ゆうひ」とひらがなで書くのが正しい番組名だったようです。ひょっとすると、文部省に気兼ねして「夕陽」を使わなかったのかな、などと想像をめぐらしてしまいます。
ああ、いけない。こんなことを書いていると、年がばれてしまいそうです。 |
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| Q0199 |
「透明」と「澄明」とは、どちらもすき通っているという意味ですが、違いがあるのでしょうか? |
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「透明」はトウメイ、「澄明」はチョウメイと読みますから、この2つの熟語は、一応、別のことばであると考えておくべきでしょう。しかし、国語辞典をいくつか調べてみましたが、たとえば小社の『明鏡国語辞典』では、「透明」は「すきとおっていて、濁りのないこと」、「澄明」は「水・空気などが澄みきっていること」となっていて、意味の上では、あまり違いがないようです。
しかし、辞書的な意味としては違いがなくても、いわゆるニュアンスのレベルで違いが出てくることがあります。そこで、ここでは「透」と「澄」という漢字の持つイメージの違いについて、少し考えてみることにしましょう。
「透」という字は、「しんにょう」がついていることからわかるとおり、「道」や「追」「逃」などと同様に、もともとは移動に関係する意味を持っていたと考えられます。「浸透」という熟語に見られるような、移動して向こう側へ突き抜けることができる、という意味が原義だったのでしょう。
これに対して、「澄」という字は、「さんずい」がついていることからわかるとおり、もともとは、濁りのない水の美しさを意味する漢字でした。水のイメージがありますから、清浄さを感じさせるところがあります。
この2つのイメージを踏まえて「透明」と「澄明」を見比べたとき、前者は「あるものを通して向こう側が見える」ということに重点があり、後者は「あるものそのものが汚れがなく美しい」ということに重点がある、と見ることができないでしょうか。
ここまで考えたところで、たとえば三島由紀夫の名作「潮騒」に出てくる次のような一節を読んでみましょう。物語の終わり近く、台風の中での試練を無事に終えた主人公が、疲れ切った若い体を一晩休めた後に、眠りから覚めるシーンです。
| 「寝台の丸窓から、彼は颱風(たいふう)の去ったあとの澄明な青空と、亜熱帯の太陽に照らされた禿山(はげやま)のけしきと、何事もない海の煌(きら)めきとを見るのであった。」 |
どうですか? イメージ、伝わりましたでしょうか? |
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| Q0200 |
「科白」と書いて、どうして「せりふ」と読むのですか? |
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まず、「科白」という漢字の意味からご説明しましょう。「白」という漢字には、恋を「告白」したり、罪を「自白」したりするところからおわかりのように、「話す」という意味があります。一方、「科」の方は、中国語では、お芝居の動作という意味があります。つまり「科白」というのは、中国語で、お芝居での役者さんの動きとことば、という意味なのです。
次に、「せりふ」ということばのお話をしましょう。このことばは時には「セリフ」とカタカナで書かれることもあって、なんとなく日本人離れした雰囲気がありますが、れっきとした日本語です。小学館『日本国語大辞典』によりますと、語源ははっきりしませんが、能や狂言の世界から出たことばのようです。意味はもちろん、役者さんがお芝居の中で言うことば、です。
このように、中国語の「科白」と日本語の「せりふ」の間には、若干の意味のずれはあるのですが、明治時代になって、この両者が結びつき、日本語でも「せりふ」に対して「科白」という漢字を当てるようになったようです。このように、漢字2字以上に日本語1語を当てて読むことを、熟字訓といいます。
ちなみに、「せりふ」を「台詞」と書くこともありますが、「台詞」も実は中国語。お芝居の中で使われることばを意味しています。日本語として使うのは、こちらも熟字訓というわけです。 |
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