漢字Q&A(その3)


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Q0101 「女」という漢字の2画目は3画目の横棒より少し出す、と子供が教わってきたのですが、私は確か「出さない」と習ったと記憶しています。どちらが正しいのですか?
 漢字の世界には、「これが正しい」「これが間違っている」と言い切れる白黒はっきりした領域と、「どちらでもいい」というグレーゾーンとがあって、このグレーゾーンが実は意外と広いのです。そして、ご質問の内容は、そのグレーゾーンに含まれる問題です。
 グレーゾーンは、グレーですから、人によっては「これが正しい」「これが間違っている」と言い切ってしまう場合もあります。戦後、当用漢字が制定されて以降、日本の漢字教育は、グレーゾーンをできる限り認めない方針で行われていたようです。図は、『当用漢字字体表』に示されていた「女」の字形です。これを見ると、2画目は3画目の横棒より上には突き出さない形になっています。当用漢字表の時代には、この字形に厳格に従った「女」でないと「間違い」だ、と教えられることが多かったと聞いています。
 しかし、そういった厳格すぎる漢字教育には批判もありました。そこで1981年に常用漢字が制定されるにあたって、字体についてはゆるやかに扱うように方針が変更になりました。ここに掲げたのは、Q0078でもご紹介した、『常用漢字表』の「前書き」に付された、「(付)字体に関する解説」という文書の一部です。ここでは、問題の部分が異なる2種類の字形が掲げられ、「どちらでもよい」とされているのです。
 現在の教育現場で、「女」の2画目は3画目の横棒より少し出す、という指導が行われているとすれば、それは、『小学校指導要領』の「学年別漢字配当表」の字形(図に示しました)に厳密に従っているからだと想像されます。しかし、別にここが突き出なかったら「性格のまるい女性」を、突き出たら「つんけんした女性」を表すようになるわけではないのです。どちらも同じ「女性」を表す漢字として、立派に通用するはずです。
 漢字本来の意味とはなんの関係もない部分にこだわる教育をしていると、漢字の世界を難しくするばかりで、子供たちの漢字に対するイメージを悪くしているのではないかと、そのことが心配でなりません。

Q0102 「枳」と、「木」へんに「貝」を書く2文字で、何と読み、何を表すのでしょうか?
 図のような2字熟語になるわけですよね。
 このご質問、いろいろと調べてみたのですが、わからないのです。「枳」は、音読みキ、「からたち」という木の名前です。一方「木」へんに「貝」と書く字の方は、音読みバイ、訓読みは「ばいたら」、インドで経典を記す木の葉だそうです。
 では、この2文字から成る熟語は、というと、今のところ、どこにも出てこないのです。おそらく木の名前ではないかと想像されるのですが……。
 ただ、調べているうちに、ちょっとおもしろいことに気づきました。それは、似たような字で、図のように書く熟語があるということです。これは「けんぽなし」という、やはり、木の名前です。そして、この後ろの「木」へんに「具」を書く字は、音読みはグ、これだけでも同じ「けんぽなし」意味を表すそうです。
 「具」と「貝」はとてもよく似ています。とすると、ご質問の2字熟語も、どこかでだれかが「具」を「貝」に書き間違えて、それが伝わってきているのではないかと……。調べのつかなかった、負け惜しみにしか聞こえませんか?

 【追記】その後、読者の方からご教示をいただきました。この2文字は、「けんのき」と読む、名字なのだそうです。大分県から福岡県にかけて、このお名前の方がいらっしゃるとのことでした。勉強になりました。(2004/01/16)

Q0103 私は小学校の教師をしているのですが、生徒のご両親からよく「自分が子どものころと比べて、漢字の筆順が変わった」と言われます。筆順とは、変化するものなのですか?
 現在、日本の学校教育において筆順を定めているのは、1958年に文部省著作として出版された『筆順指導の手びき』という書物、これ1冊だけです。したがって、オフィシャルな意味では、それ以前はともかく、それ以後、筆順の基準は変化していないはずです。
 ただし、この『筆順指導の手びき』では、具体的に筆順が示されている漢字は、当時の教育漢字881字のみです。現在では、小学校で習うことになっている教育漢字は1006字に増えていますから、その差、125字については、具体的な基準はないことになります。しかし、『筆順指導の手びき』では「筆順の原則」が定められているので、それに従って敷衍すれば、そう大きな違いは生じないはずです。
 むしろ、違いが生ずるとすれば、『筆順指導の手びき』で複数の筆順が示されている漢字に関してでしょう。この書物では、「特に注意すべき事項」として、「広く用いられる筆順が、2つ以上あるもの」を挙げています。たとえば「上」「止」などの「卜」の部分、「発」「登」の「癶」の部分、「祭」の「又」の部分、「必」などです。こういった漢字の筆順については、あるいは先生によって、教え方が違うことがあったかもしれません。
 なお、『筆順指導の手びき』の「筆順の原則」は、筆順関連の辞典などによく収録されていますが、小社では、学習用漢和辞典『新漢語林』に付録として収録しています。ご参照ください。

Q0104 「何ヵ所」と「何ヶ所」の使い分けには、何か決まりがあるのですか?
 一見すると「カ」も「ケ」もカタカナですよね。だからこれは厳密に言うと、漢字に関するご質問ではないですよね……。それでもきちんとお答えしようというのは、何も私がいい人だからではなくて、それなりの理由があるのです。
 それは、「何ヶ所」と書いてどうしてナンカショと読むのだい、ナンケショとしか読めないじゃないか? というところから始まります。この「ケ」は、もともと「个」という形が変形したものだと言われています。そしてこの「个」は、「箇」の異体字略字)なのです。つまり、「何ヶ所」と書くときの「ケ」はカタカナの「ケ」ではなくて、漢字の一種だというわけです。ね、漢字のお話になりましたでしょう?
 この「箇」という漢字は、「その」「この」など、特定の物を指し示す働きを持っています。「箇所」の場合は、特定の場所を表しているというわけです。れっきとした漢字の熟語なんですね。
 そこで現在では、ナンカショを漢字で書きたいときには「何箇所」と書くのが、最も一般的だとされています。もちろん、「何か所」「何カ所」「何ヵ所」「何ヶ所」といった書き方がされることもありますが、本来は「何箇所」なのです。

Q0105 魚のコノシロは、辞書によると漢字では「鮗」とか、「魚」へんに「祭」と書くことになっていますが、パソコンでは変換できません。どうしてでしょうか?
 まず、「鮗」という漢字は、いわゆる国字で、もう1つの図に示した字の方は、中国で元からある漢字です。同じコノシロに対して、中国と日本で別の漢字を当てていることになります。
 さて、「鮗」は、JIS漢字の第1・第2水準に入っていますから、パソコン上で扱うことは簡単にできます。「このしろ」と入力して変換されないならば、それは、かな漢字変換ソフトに登録されていないだけのことです。そういう場合は、直接、目的の漢字を指定して入力することになります。その具体的な操作については、Q0070を参照してください。
 なお、「鮗」を何度も使うのならば、単語登録しておくと便利です。
 一方、「魚」へんに「祭」と書く漢字は、JIS漢字の第1・第2水準には入っていません。しかし、最近のパソコンはユニコードというものに対応しているものが多いので、JIS第1・第2水準以外の文字も扱えることが多いのです。この漢字も、ユニコード漢字の1つです。入力方法は、上記の「鮗」と同じです。ただし、ユニコード漢字については、ソフトによってはうまく表示されない場合もあります。そのあたりについては、Q0097で少し触れましたので、そちらを参照してください。

Q0106 「舟」偏に「公」と書いて、何と読むのですか?
 それは「舩」という字ですね? これは、なんてことはない、「船」の異体字で、JIS漢字の第1・第2水準にも入っていますから、今ではたいていの漢和辞典に掲載されていると思います。
 このように、「口」の形が「ム」の形になっている異体字は、わりあいによく見かけます。昔の有名な書家の作品などを調べてみると、むしろ、「ム」の形の方が一般的ではなかったのか、と思わせるぐらいです。しかし同時に、手書きではなく木版による印刷物などを調べてみると、「口」の方が支配的なのです。つまり、たとえば「船」の場合、
    手書きでは  舩
    印刷物では  船
という使い分けがなされていたようなのです。
 これはおそらく、手書きの場合は「口」と書くのがめんどくさい、というシンプルな理由によるものと思われます。めんどくさがり屋が多いのは、古今共通ですね。ちょっと安心します。
 しかし、昔の人は、手書きで「ム」と書いてあってもこれは「口」のことだ、と頭の中で自動的に変換をしていたのであろうと思われます。このように融通の利く古人の知恵から、現代に生きる私たちは学ぶところが多いのではないでしょうか。

Q0107 「耳」へんに「ム」と書いて、どうして「職」の俗字になるのですか?
 これも1つ前のQ0106と同様、めんどくさがり屋さんのしわざです。ただし、この字は、異体字を集めた伝統的な字典には出てきませんから、かなり近代の、しかもかなりのめんどくさがり屋さんのしわざではないかと推測されます。
 一般に、めんどくさがり屋さんたちは、《万能略字パーツ》として「ム」を使うことが多いようです。Q0106で紹介した「口」の代わりに「ム」を使う以外にも、たとえば、「仏」の旧字体は「佛」、「払」の旧字体は「拂」で、「弗」の形を「ム」と省略しています。もっと大胆なのは「広」で、旧字体は「廣」。「黄」の旧字体という、12画もある複雑な字形をたった2画に略して、あっさりすっきり、溜飲を下げている姿が目に浮かんできそうです。ですから、「耳」へんに「ム」を書く字も、その延長線上で考えることができるでしょう。
 ただし、めんどくさがり度ではかなり上をいく中国の簡体字を見てみると、「佛」「拂」はそのままの字形ですし、「廣」は「广」に、問題の「職」は図のようになっています。ひょっとすると、「ム」を好んで使うめんどくさがり屋さんは、日本にしか棲息していなかったのかもしれませんね。

Q0108 「学」という漢字の「冖」の最後のところは、すぐ左下に小さく「はねる」のでしょうか? 左下に少し長めに「はらう」のでしょうか?
 このコーナーを始めて以来、みなさんが漢字の微妙な部分をとても気にしていらっしゃることが、ひしひしと実感されてきているのですが、それにしても、このご質問は、最大級に微妙なご質問ではないでしょうか。
 ご質問の主旨は、せんじつめれば、「冖」の最後、折れ曲がった後の「長さ」の問題ではないかと思います。そして、これまたせんじつめてお答えするならば、例によって、その「長さ」によって別の字になってしまうことがない以上、適当でかまわない、というお答えになります。
 しかし、毎回、こんなお答えでは、納得しない方も多いでしょう。そこで、ちょっと別の角度から、この問題を考えてみます。
 図は、中国の明(みん)王朝の時代(15~17世紀)に書かれた2種類の「学」の字です。ともに少しくずした字体になっていますが、問題の部分は、左の字の方が短く、右の字は長くなっています。右の字をじって見つめていると、問題の部分が長くなっているのは、次の「子」の最初とつながっているからだということに気づきます。つまり、漢字の画の長さや方向といったものは、その前後の画との関係も考慮しなくてはいけない、ということなのです。
 「学」の問題の部分の場合、ここをあまり「短くはねる」と意識してしまうと、次の「子」の最初の画へスムーズにはつながりません。しかし、「長くはらう」という意識が強すぎると、字形が判然としなくなるおそれがあります。「学」のように単純な字形だとそういうことはあまりないのですが、「覚」「営」などになってくると、「長くはらう」ことによって、他の部分と重なってしまうおそれさえでてくるのです。
 そこで結局は、次の画へスムーズにつながりつつ字形がはっきりと保てるような適度な長さ、というのがよろしいのではないでしょうか。これは、「正しい漢字」を書くためというよりは、「美しく見やすい漢字」を書くために重要なことだと思います。

Q0109 「備」の6画目と7画目の関係は、「厂」のようになっているのが正しいのですか、それとも6画目が横に突き出ているのが正しいのですか?
 ご質問は、図の2つの「備」の違いのことだと思われます。左の方は、6画目の横棒と7画目の縦払いの出発点がほぼ同じで「厂」のようになっていますが、右の方は、6画目の横棒の方が、かなり左から出発しています。
 実はこの2つの字形は、左の方が『当用漢字字体表』に示された字形、右の方がいわゆる教科書体で、「学年別漢字配当表」に示された字形なのです。前者は、当用漢字が制定された直後の1949(昭和24)年に示されたもの、後者は、1977(昭和52)年、小学校の教科書で使われる漢字の字形を定める必要上、示されたものです。これらを厳密に解釈するならば、問題の部分に関しては、1977年を境として、基準が変わったといえるでしょう。
 しかしそもそも、この部分の相違が、どれほどの問題となるのでしょうか。
 字源から考えると、「備」という字はもともと図の左側ような形をしていて、この右半分の形、つまり「にんべん」を除いた形は、現在の楷書体に直すと図の右側のような形になります。これは、矢をいれる「えびら」を意味する漢字で、これを人が背負うことが「備」の本来の意味だといわれています。狩りや戦いの準備をする、ということでしょうか。
 それはともかくとして、現在の「備」の字形は、すでに本来の字形を変形してできあがったものですから、細かい点について字源的な意味を詮索しても、あまり意味はなさそうです。上に見たように文部省の定める字形に変化があったのも、意味を持って変化させたのではなく、無意識のうちに違うデザインになっていた、ということではないでしょうか。
 ご質問の字形の差異は、活字でも、書体によってデザインに違いが生じてくるような部分です。ましてや手書きの場合は、あまりこだわる必要はなさそうです。

Q0110 「散見」という熟語は、国語辞典では自動詞として出ていますが、「~に散見する」「~に散見される」「~を散見する」という3つの使い方があるように思います。どれも正しいのですか?
 小社から刊行されている北原保雄編『明鏡国語辞典』は、ことばの用い方についてかなり厳密な記述をこころがけた国語辞典ですが、この辞典でも、「散見」は自動詞として説明されています。自動詞というものは元来、目的語をとらないものですから、そこからすると「~を散見する」という言い方はおかしい、ということになります。
 また、目的語をとらないのに受動態になるというのもふつうではないので、そういう考え方からすると「~に散見される」というのもおかしい、ということになります。しかし、こちらの方はよく見かける表現ですし、日本語の場合、自動詞の受動態というのも少なからずあります。したがって、「正しい」度合いとして「~に散見する」が1番高く、「~に散見される」は中くらい、かなり低いのは「~を散見する」という感じになるでしょうか。
 と、ここまでは国文法的な説明。一方、漢字の方から見ると、どうなるのでしょうか。
 「見」という漢字には、本来、「みる」「みえる」の両方の意味があります。前者は「私は富士山を見る」というように、見ている主体が主語となります。後者は「私には霊が見える」というように、見られている対象が主語となります。つまり、前者が能動態だとすると、後者は受動態のような関係になっているのです。
 そこで「散見」ですが、この語は「散」らばった状態で「見」えるわけですから、「見」は「みえる」の意味で用いられています。とすると「散見」はそれ自身で、受動態のような意味を持っていると考えられないでしょうか。やはり、「~に散見する」というのが、1番「正しい」という結論となります。
 ちなみに「見」という字、熟語になる場合には「みえる」という意味で用いられていることが多く、他には「意見」「偏見」などの「見方、考え」などの意味はありますが、能動的に「みる」という意味で用いられることはあまりない、というのが私の印象です。

Q0111 「神馳」という熟語を見かけたのですが、何と読むのですか、また、どんな意味ですか?
 このことばをどういうところで見かけたのかがはっきりしないと何とも言えないのですが、とにかく、調べのついた範囲でお答えすることとしましょう。
 「神馳」、音読みしてシンチという熟語は、『大漢和辞典』にもちゃんと出ていて、「思う」という意味だと書いてあります。この場合、「神」は「神様」の意味ではなくて、「精神」などと同様に「こころ」という意味です。「馳」の方は、訓読みで「はせる」、走っていくという意味ですから、つまり「神馳」は「こころが走っていく」という意味で、遠くのものを思うという意味になります。
 このことばの一番有名な用例は、日本史の教科書には必ず出てくる阿倍仲麻呂という人がいますが、彼が作った漢詩の一節、「首を翹(あ)げて東天を望み、奈良の辺りを神馳す」でしょう。遣唐使として中国に渡り、一生涯を異国の地で過ごした仲麻呂が、故郷・奈良の三笠山を思いながらうたった詩です。そういうイメージのあることばです。
 一方、このことばを訓読みする、という可能性もあります。文字だけを眺めていると、日本の姓名や地名にいかにもありそうな気がしてきます。しかし、調べてみても成果はゼロ。ただし、インターネットで調べると、小説家・池永陽さんの「水の恋」という小説に、「神馳淵」(かんばせぶち)という池が出てくるそうです。場所は飛騨の山奥。実在する地名なのかどうかは、よくわかりません。

Q0112 「漢語」と「和語」は、どのように識別したら良いのでしょうか? 和語は、訓読みの組み合わせだという規準だけで良いのでしょうか?
 「漢語」と「和語」をそれぞれ字面だけから解釈しますと、「中国のことば」「日本のことば」となります。つまり、「漢語」とは、中国から入ってきたことばを指すわけです。中国から入ってきたことばは音読みされますから、音読みの熟語は漢語、訓読みは和語、と考えればよさそうです。
 しかし、実は、音読みで読まれる熟語の中にも、日本で作られたものがあるのです。有名な例としては「火事」があります。これはもとは和語の「ひのこと」を漢字で表記するようになり、それを音読みすることによって成立したことばだと言われています。また、近代になって、西洋からいろいろな文物が入ってきた際に作られた翻訳語の中にも、たとえば「新聞」のように、音読みされながら日本製であるものが数多くあります。
 そして、中には、日本で作られた後に中国に「逆輸入」された音読み熟語もあります。さらに、中国にも日本にもあって、どちらが先かわからないものもあります。
 このように、熟語の日中関係はなかなか複雑なので、厳密な学問としてはともかくとして、一般的には、その出生をあまり問うことなく、音読みの熟語を漢語、訓読みの熟語を和語と読んでいます。ただし、熟語の中には、音読みと訓読みの混ざっているものもあります。「重箱読み」「湯桶(ゆとう)読み」といわれるのがそれです。これらは、訓読みを含んでいるので、和語に分類されるのがふつうです。
 もちろん、以上は複数の漢字から成る熟語に関するお話で、和語には漢字で表記されないものがたくさんあることも、忘れてはいけません。

Q0113 「成る」と「為る」はどちらも「なる」と読みますが、どのように使い分ければよいのですか?
 ごくごく味気ない話からはじめますと、現在の『常用漢字表』では、「成」には「なる」という訓読みがありますが、「為」には「なる」という訓読みはありません。そこで、これに厳格に従うならば、「為る」という書き方はしない、ということになります。
 すいませんね、無粋な話で。もちろん、国民が常に『常用漢字表』を意識して漢字生活を送っているわけではありませんし、『常用漢字表』の方だって、一般の社会生活での漢字使用の「目安」だよ、という位置づけですから、そう堅苦しく考える必要はありません。そこで、もう少し色気のある話をしましょう。
 まずは、「成」「為」のそれぞれの漢字の成り立ちを見てみましょう。「成」の部首は「戈」(かのほこ)、この「戈」は音読みカ、訓読み「ほこ」で、武器の「ほこ」を表す漢字です。つまり「成」は、武器に関係する意味を表す漢字なのです。「為」の部首は現在では「れっか」ですが、旧字体では「爲」なので、「爪」(つめ)が部首となります。この「爪」は、手を表す象形文字で、そこから、この字は「手を使った作業」に関係する漢字だとわかります。
 一方、小社刊・北原保雄編『明鏡国語辞典』によりますと、「なる」という日本語はもともと、「人為的でなく、自然のなりゆきで推移変化して別の状態が現れる意」だそうです。「成」や「為」の成り立ちのイメージとは、だいぶ違うと思いませんか?
 以上見てきたことからすると、「なる」に「成」や「為」という漢字を当てるのは、あくまで慣用のように思われます。そういう意味では、「成る」と「為る」を使い分ける根拠は、あまり見あたらないと言えそうです。
 ただし、「為」にはどうしても「ため」というイメージがつきまとう分、日本語の「なる」の自然発生的なイメージからはさらに遠くなります。そこで、『常用漢字表』のとおりに、「成る」を使う方がいくらかマシ、というふうに思うのですが、いかがでしょうか?

Q0114 IMEパッドで、縦棒4本に、横棒を1本引いた字を見たのですが、これはどういう意味の漢字ですか?
 数の20を表す「廿」という字は、もともと「十」に縦棒を1本足してできあがったものだ、ということをご存知の方は多いでしょう。そして、さらに縦棒を1本足した「卅」(30)という漢字もあることをご存知の方も、いらっしゃるでしょう。とすると、ご質問の図のような漢字は、当然ながら40ではないかと予想されますよね。それで間違いはないのです。
 こうなるとうれしくなってきてしまって、どこまで続くのか知りたくなるのが人情というもの。ところが残念なことに、ここまでなんです。『大漢和辞典』を調べても、他の字典を調べても、横棒1本に縦棒5本で50、という漢字は出てこないんですよね。そこまでいくと、さすがに見にくいんでしょうね。5本の線を書くのもたいへんで、かえってめんどくさそうですし……。
 ただし、代わりといってはなんですが、「百」を2つ横に並べて200というのはあります。でも、こちらはさらに甲斐性のないことに、300はありません。
 これらの漢字、最近作られた俗字かと思いきや、「廿」も「卅」も、紀元1世紀の中国で作られた『説文解字(せつもんかいじ)』という字書に出ているというから驚きです。そのころにはすでにしっかりと存在していたというわけで、昔の人も、めんどくさがりが多かったのかもしれません。

Q0115 「傾」の左側は「化」と同じだと思っていたら、子どもが先生から、それだと間違いで、正しい漢字はパソコンでは出ない、と言われました。どういうことなのでしょうか?
 それは妙な話ですね。「傾」は常用漢字ですから、図に示した『常用漢字表』の字体が基準になります。明朝体と手書きのデザイン上の違いはあるにせよ、この通りに書いたとして、間違いだと言われる理由はありません。また、パソコンのフォントもこれをモデル作られているはずで、パソコンでは出ない、というのも納得がいかないところです。
 考えられるとすれば、先生のおっしゃっているのは、「ヒ」の左下の部分のことではないでしょうか。なぜなら、書道の世界を眺めてみますと、図のように、この部分を丸くではなく、鋭角的に曲げて書いているケースが多く見受けられるからです。
 一般に、手書きで漢字を書く場合は、次の画へつなげるために、ある画をややデフォルメして書くことがあります。この「ヒ」の場合も、次の「頁」の最初へ筆を持って行くためには、かなり苦しい角度で筆を跳ね上げる必要があります。そのため、「ヒ」の最後を鋭角的に曲げて書いているのではないかと思われます。その方が、筆の運びがなめらかになって、美しく整った字が書きやすい、というわけです。「化」の場合には、そんな必要はないので、おのずと字の形が違ってくるのです。
 でも、だからといって、そう書かなくては間違い、というわけではありません。先生のおっしゃっていることは、美しい字を書くための知恵、と理解するのがよいのではないでしょうか。

Q0116 漢字テストで、「後」の「夂」の1画目が上に突き出ていないという理由で×になったのですが、ここは突き出ないと間違いなのでしょうか?
 このQ&Aコーナーのあちこちで申し上げているとおり、小社漢和辞典編集部としては、漢字の字体の軽微な差異を問題にするのは、あまり意味がないと考えております。また、Q0078Q0101でも触れたとおり、『常用漢字表』の「(付)字体についての解説」という文章を見る限り、文部省(現・文部科学省)も同じような立場にあることと考えてよいでしょう。
 そういう立場からすると、「夂」の1画目が突き出ていないと間違いだ、というのは、ちょっと厳しすぎる考え方だと言わざるを得ません。
 しかし、だからといって、どんなふうに書いてもよい、というわけでもありません。当然ながら、許容範囲内のものと、それ以外のものとが出てきます。その基準をどのように立てるかについては、いまのところ、次のようなことが考えられると思っております。
 標準字体に比べて、画数が変わらないこと。
 標準字体と比べて、画の角度が45度以上変わらないこと。
 漢字の全体・部分が、別の意味を持つ部分になっていないこと。
 「夂」について問題があるとすれば、このうちの3です。現在の常用漢字で「夂」のように書くものは、字源をたどっていくと、元々はいくつかの別の要素にたどりつきます。たとえば「冬」のこの部分は今と変わらず「夂」ですが、「夏」のこの部分は元は「夊」のように、3画目が突き出ている形をしていましたし、「変」のこの部分は元は「攵」の形で、それぞれ違う意味を持つ、別個の要素なのです。
 この3つを区別するための議論であれば、それなりの意味を持つとは思うのですが、1画目を突き出すかどうかは、この3つの区別には関係していません。従って、やはりこの部分にこだわるのはあまり意味がないというのが結論です。
 なお、この3つを区別するというのは、あくまで字源レベルでのお話で、常用漢字とは別レベルでの議論です。学校教育は常用漢字の範囲内で行われるわけですから、この3つを区別する必要は全くありません。

Q0117 ある漢字字典によると「母」の部首も「毎」の部首も、「ははのかん」という同じ部首だと出ていました。前者は点々、後者は一本線で形が違うのに、どうしてですか?
 漢字の世界には、理路整然としている部分と、いい加減な部分とが混在していて、その両者が肩を並べて座っているようなところがあります。部首にもそのようなところがあって、「木へん」とか「さんずい」とか「くさかんむり」とかいうメジャーな部首の分類は理路整然としているのですが、マイナーな部首は、けっこういい加減なのです。
 いま、小社の『新漢語林』で「母」を調べると、「毋」部に所属していることがわかります。そうして、同じ部首に所属する漢字を見ていくと、JIS漢字では他に部首文字の「毋」に加えて、「毎」「毒」「毓」(イク、「育」の異体字)の4つしかありません。これらのうち、「毎」はもともと旧字体では「毋」ではなく「母」と書きますから、「毋」「毒」のグループと、「母」「毎」「毓」のグループの2つに分かれると考えることができます。
 さて、ご質問にあったように厳密に考えて、「毋」という部首とは別に「母」という部首を作ってもよいのです。でも、そうしても、JIS漢字内だと前者は2文字、後者は3文字にしかなりません。対象を『大漢和辞典』の5万字まで広げたって、前者は14文字、後者は8文字にしかならないのです。そんな細かい部首を作ってもしかたがない、似たもの同士なんだからいっしょにしてしまえ、ということで、1つ屋根の下に同居している、というのが、「毋」部に関する現状となります。
 なお、この「毋」部の名前ですが、一般には、部首文字の「毋」の訓読みを採って「なかれ」と呼んでいます。「ははのかん」という名前もないではないですが、この場合の「かん」はおそらく「貫」のカンでしょう。しかし、「貫」は「貝」部に所属しますので、「ははのかん」だと、部首名と内容が一致しません。「なかれ」の方がよいのではないかと思います。

Q0118 漢和辞典では「比」の画数は4画となっていますが、活字の通りに左下を分けて書くと5画になります。漢字テストなどでたいへん困るのですが、どのように考えればよいのでしょうか?
 似たような問題をQ0029でも取り上げたのでくり返しになりますが、この点はよくご質問をいただく重要な問題なので、あらためてご説明しておきたいと思います。
 私たちがふつうに目にしている活字体の漢字と、手書きで書く漢字の間には、細かい点でいろいろな違いがあります。その原因は、手書きで書く場合は、画と画との間のつながり、つまり運筆のしやすさが、できあがりの字体にどうしても影響を与えてしまうのに対し、活字の場合は、そのような束縛からは解放され、なおかつ、活字として美しく見えるよう、デザイン上の配慮がなされているからです。
 それはちょうど、英語のアルファベットにブロック体と筆記体の違いがあるのと同じだと考えれば、理解しやすいのではないかと思います。1つの文字が、筆記用具による束縛や、デザイン上の問題からさまざまな形を取りうる、というのは、洋の東西を問わず、ごくごく当たり前の現象なのです。
 さて、問題の「比」の字ですが、これを活字の通りに書こうとすると確かに5画になります。しかし、手書きの場合には図のように書くので4画となります。5画になるのは、あくまで活字のデザイン上から「そう見える」だけの話ですから、漢和辞典では「比」は4画として数えるのです。
 そんなややこしいことはやめて、活字の通りに数えた方がわかりやすいのでは? というご意見もあるでしょう。しかし、Q0029でも例を挙げたように、「比」と同種の問題だけでも「衣」「長」「氏」「卯」などがありますし、さらにそれを構成要素として含む漢字も多数あります。それらのすべてについて画数を変更するのは、これはたいへんなことなのです。
 活字のデザインは変化していきますから、今後も、こういった違いが新しく生まれてくる可能性もあります。それらをいちいち取り上げて、その差異を解消していくよりも、手書きと活字の間には差があって当然なのだ、という考えを持つことの方が、よほど簡単で、フレキシブルではないかと思います。

Q0119 「雪辱」の由来、語源などをお教えください。
 この熟語は、漢文風に訓読すると「辱(はじ)を雪(すす)ぐ」となります。つまり、恥を洗い流すということで、四字熟語で言えば「名誉挽回」というのと同じ意味になります。
 「辱」というのも難しい漢字ですが、それ以上に、なぜ「雪」が「すすぐ」という意味になるのか、という方がわかりにくいかもしれません。この字の成り立ちに関しては、例によって諸説があり、また、甲骨文字までさかのぼると現在の字形とは違う字形になってしまうということもあって、なかなか一致を見ないようです。ただ、この字が古くから「洗い清める」という意味で使われていたことは、間違いありません。そのイメージは、私たちが現在抱いている、「きよしこの夜」の雪のイメージと、そうかけ離れてはいないのではないでしょうか。
 この熟語の一番有名な用例は、「会稽(かいけい)の辱を雪ぐ」でしょう。中国古代の春秋時代、越(えつ)国の王が、呉(ご)国に会稽山という所で敗れ、ひどい屈辱を味わいましたが、その後何年も苦労を重ねた上で、最後には呉国を滅ぼすに至った、という史実から生まれた故事成語です。
 しかし、当の中国では、この熟語を「雪耻」(「耻」は「恥」の異体字)と書くことが多いようです。日本語で音読みすればセッチとなるわけで、セツジョクとは違うことばとなります。少なくとも日本語の場合、「辱」という漢字は、「屈辱」「汚辱」「侮辱」など、単なる「はじ」ではなくて、他者から受ける「はずかしめ」(あるいは他者へ与える「はずかしめ」)の意味で使われることが多いように思われます。「雪辱」という熟語の成立には、そのあたりが関係しているのかもしれません。

Q0120 法律関係では「冒用」という熟語があるのですが、国語辞典や漢和辞典には出ていません。これは特殊な用語なのでしょうか?
 初めて聞く熟語ですね。たしかに『大漢和辞典』にも出ていませんし、小学館『日本国語大辞典』にも出ていません。しかし、試みにインターネットで検索しますと、「名義冒用」などの形で、意外なほど多くの数のヒットがありました。全て法律関係のサイトのようですが、たしかに、現在でも生きている熟語なのでしょう。
 「冒」という漢字は、訓読みでは「おかす」ですが、この「おかす」には2種類あるように思われます。1つは、危険をかえりみずに何かをする、という意味、「冒険」がその代表例です。もう1つは、神聖な領域や他人の領域に乱暴に踏み込む、という意味で、「冒涜」(ボウトク。「涜」の正字がパソコンでは出ないのはご勘弁を)がその代表です。
 『大漢和辞典』を眺めていると、この後者の意味がさらに発展して、他人のものを自分のものにする、というような意味で「冒」が用いられている熟語が目につきました。「冒取」は他人のものをいつわって取る、「冒認」は他人のものをいつわって自分のものだと認める、「冒名」は他人の名をかたる、「冒領」は他人のものをいつわって受け取る、などなどです。おそらく「冒用」も、こういった一連の熟語と同じような「冒」の使われ方から生まれた熟語なのでしょう。そういう意味では、それほど特殊な熟語ではないのかもしれません。
 でも待ってください。今、「冒認」をインターネットで検索してみましたが、こっちも「冒認出願」の形で、法律関係のサイトばっかりです。やっぱり、法律の世界でのみ生きていることばなんですよね……。

Q0121 数を表す漢字についてですが、Q0056を見ると、「恒河沙」以降は、10の8乗倍ごとに呼び方が変わっていくようですが、これでよいのですか?
 そうなんですよね。Q0056に対するお答えを調べていたときに、私も気になってはいたんですよ。でも、ネタ本の『塵劫記(じんこうき)』をみると、「恒河沙」までは、たとえば「万億を兆と云う」のような注記が、「恒河沙」以降には、たとえば「万万極を恒河沙と云う」というような注記があって、意図的に違えていることは確かだと思います。
 これは、Q0056でも触れたような、中国固有の数の呼び名は「載」までで、「極」以降はインドから輸入されてきたものであるらしい、ということと関係するのかもしれません。ただし、中国の古い算術書でも10の8乗倍ごとに呼び名が変わっているものもあったり、またそもそも漢王朝(紀元前2世紀~紀元後2世紀ごろ)以前は「十万」を「億」と呼んでいたりしたこともあったようで、このあたりはよくわからない部分が多いようです。
 で、かりに「万万極」を「恒河沙」と呼ぶことを受け入れたとすると、「千極」の次はどうなるのか、という疑問が生じてきます。これはおそらく「一万極」「十万極」「百万極」「千万極」「恒河沙」となるのだと思われます。
 1秒というのは、セシウム原子の固有振動数(いったいなんのことだ?)の91億9263万1770倍と定義されているらしいのですが、一方、宇宙の誕生から現在まで約150億年。そこで、宇宙が誕生してからこのかた、セシウム原子なるものが何回「固有振動」したのか計算してみると、約4350穣回という結果になります。
 ここまで苦労してみても、「恒河沙」には遠く及ばないのです。このあたりになると、実際的な数字を表すというよりは、哲学の世界、空想の世界ですから、あまり追求してもしかたないのかもしれませんね。

Q0122 「切り換え」と「切り替え」は国語辞典などでは同義語として扱われていますが、「きりかえスイッチ」はどちらを使いますか?
 漢字の使い分けというのは、基本的には2つの側面があると思います。1つは、その漢字が本来はどのような意味を持っているのかを見極めて判断する、という側面。もう1つは、その漢字が日本語の中で慣用的にどう用いられているかから判断する、という側面です。
 そこで問題の「きりかえ」ですが、これは「換」と「替」の使い分け、ということになります。しかし、この2字を上記の2つの側面から追求しても、なかなかハッキリした使い分けが出てこないのです。
 国語辞典で同義語とされているとおり、日本語の中では慣用的に、この2文字は置き換えが可能です。もちろん、「置き換え」を「置き替え」と書くことはあまりないように、ことばによってはどちらかの漢字が定着しているものもありますが、全体を見渡した場合、両者に用法上の大きな違いは見あたりません。
 次に、漢字の本来の意味を考えてみると、「換」は「手」へんが付いていますから、手に関係するイメージです。「替」は、「日」が付いていますが、これはニチという字ではなく、もともとは「曰」という字で、音読みエツ、訓読みで「いう」という漢字です。漢文で「子曰わく(しいわく)」などという時の「曰」で、つまり「言う」という意味ですから、「替」はことばに関係するイメージとなります。
 そうすると、「換」は手でとりかえる、「替」はことばを交わしてとりかえる、といった意味なのかということになります。もちろん、もともとはそうだったのでしょうが、特に「替」の方はそういったイメージは早いうちに薄れてしまっています。
 というわけで、「きりかえスイッチ」の場合も、やっぱり国語辞典に従って、どちらでもよい、ということになりそうです。どうしてもどちらかを選べ、とおっしゃるのならば、スイッチですから、やはり手のイメージがある「換」の方としておきましょう。

Q0123 「蛇」の「虫」の上に「ノ」を付けると、何と読む漢字になりますか?
 これは、「蛇」の異体字です。意味も読みも、「蛇」と同じだと考えて大丈夫です。
 そもそも、「虫」の字を書くときに上に「ノ」を付けるのは、古来、非常に例が多いのです。例によって角川書店の『書道大字典』にお世話になって、代表的なものを図として掲げておきます。
 どうして「ノ」が付くのかは不思議ですが、もともと「虫」という漢字は私たちの知っている音読みでチュウ、訓読みは「むし」という字ではなく、音読みキ、「まむし」を表す字でした。では、「むし」というのはどういう字だったかというと、「虫」3つを合わせた「蟲」というのがその形。ただし、その略字として「虫」を使うことは昔からあったようです。そういう事情から、略字だよ、という符号のような意味で、「ノ」を付したのかもしれません。
 以上は全くの臆測で、「虫」は篆文では図のように書きますから、「ノ」はその形の名残、盲腸のようなものなのかもしれません。
 「虫」がこんな具合ですから、「虫」が付いている漢字は全て、「虫」の上に「ノ」が付く可能性があるわけです。そこで、漢和辞典では、「虫」の異体字として「ノ」が付いた形を収録することはありますが、それ以外については、「いちいちやってらんないよ」というわけなのです。ご勘弁くださいな。

Q0124 「雪の華」ということばがありますが、厳密にいうと「華」ではなくて「花」が正しいのではないですか?
 大きな国語辞典を調べると、「雪の花(華)」とは、雪が降る様子を花が散る様子にたとえていうことば、などという説明があります。とすると、たしかに「花」という漢字で十分なような気もします。
 そもそも、「花」と「華」の関係はどうなっているのでしょうか。まず、どちらも常用漢字に入っているので、どちらかを使ってはいけない、ということはありません。どちらも音読みはカで、意味は「はな」ですから、異体字の関係なのでしょうか。そう思って漢和辞典を調べると、異体字扱いはされていないことがわかります。
 「花」は基本的には、文字通り、植物の「はな」の意味ですが、「華」には、そのほかに「はなやか」「はなばなしい」などの意味があるのです。そして、現代中国語では、「華」の字にも2種類の発音があって、「はな」の場合と「はなやか」「はなばなしい」の場合とでは、微妙に発音が違うのです。
 このように見てくると、「花」のイメージはかなり具体的ですが、「華」の方は、具体的な「はな」の他に、抽象的な、比喩的なイメージを併せ持っているように思われます。そこで、「雪の花」と書くよりも「雪の華」と書く方が、はなやかで幻想的な、イメージの広がりがあるのではないでしょうか。もしかすると、「華」の方が画数が多く複雑な形をしていることも、このイメージに「花を添えている」のかもしれません。
 国語辞典には出てこないのですが、雪の結晶のことを「雪の華」と呼ぶこともあるようです。この場合も、植物の花に似ていることに加えて、なにか幻想的なイメージを込めて「華」の字が使われているのでしょう。

Q0125 よく証券などで「一」「二」「三」を「壱」「弐」「参」と書きますが、「四」以上にもこんな書き方があるのですか?
 このような漢数字の書き方は、「大字(だいじ)」と呼ばれていて、商取引の金額など、文字が改変されると困る場合に、字画の複雑な漢字を使うものです。
 そういう目的で用いられる書き方ですから、「四」以上にもないと困ります。で、順番に記しますと、「肆」「伍」「陸」「漆」「捌」「玖」となります。このあたりはあまり知られていませんが、「十」が「拾」となることは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。その先はというと、「百」は「陌」に、「千」は「阡」になり、「万」はもともと旧字体では「萬」ですから、ここから先はわざわざ「大字」を使わなくても、改変されるおそれは少なそうです。
 この大字、日本では古くは奈良時代からあるそうです。そんなに古いのかと思っていると、起源はやっぱり中国で、なんでも孟子の時代(紀元前4世紀ごろ)には、すでに「壱」や「弐」を「一」や「二」の代わりに用いた例があるそうですから、相当な歴史を持っている書き方です。
 いやはや、当たり前の話ではありますが、そんなに昔から、人間は商売をしていたのですね。そして、字を書き変えて金を儲けようなんて、ずるいヤツがいたのですねえ……。

Q0126 よく石碑などに、それを建てた日付の最後に「建之」と書かれていますが、これは何と読むのでしょうか?
 最近、ちょっと忙しいので写真を撮ってきてお目にかけられないのが残念なのですが、たしかにこの「建之」は、私も見たことがあります。これを音読みした場合、ケンシと読むことが考えられますが、国語辞典を調べてもそんなことばはありません。そこで『大漢和辞典』を調べてみると、「建之」という熟語があるにはあるのですが、李さんだかだれだかのお名前だそうで、目的の熟語ではないようです。
 自分が辞典を出している会社に勤めているから申し上げるわけではないのですが、辞典類がこの熟語の載せていないのには、ちゃんと理由があります。この「建之」、おそらくいわゆる熟語ではないのだと思われます。
 ではなんなのかと申しますと、これは「漢文」だと思います。つまり「建」と「之」の間にレ点を打って、「之(これ)を建つ」と読むのだと思います。「之(これ)」が指しているのはもちろん、その石碑なりなんなりで、「何月何日にこれを建てました」という意味になるわけです。
 明治維新以後、西洋文明が大量に流入してくる以前は、日本の知識人とは漢文を読み書きできる人のことでした。正式な文書が漢文で書かれることはしばしばでしたし、彼らの間では、手紙のやりとりなども漢文で行われていたのです。そこで、今でも、ちょっと古い石碑を探すと、漢文で書かれているものを見つけることができます。おそらく、何か石碑を建てるときには、地域の学のある人に文章を書いてもらっていたのでしょう。それは、そんなに特別なことではなかったのだろうと思います。
 この「建之」の2文字には、漢文が今からは想像もつかないくらい身近で、日常生活に溶け込んでいた、そういう時代をしのばせてくれるものがありはしないでしょうか。

Q0127 「木乃伊」と書いて「ミイラ」と読ませるのには、どういういわれがあるのでしょうか?
 まず「ミイラ」ということばですが、これは17世紀ごろから用例がある日本語で、語源的にはポルトガル語から来ていると言われています。一方、「木乃伊」というのは、これはもともと中国語です。『大漢和辞典』によりますと、14世紀の後半に陶宗儀(とうそうぎ)という人が書いた『輟耕録』(てっこうろく)とい本に、ミイラの詳しい作り方(?)が出ていて、その末尾に「異民族の言葉で木乃伊と言う」とあります。
 そこで問題は「木乃伊」の語源ということになりますが、これは一般には、英語の mummy とか、オランダ語の mummie から来ていると言われています。素養がないのでオランダ語の発音は存じませんが、英語の mummy はマミーのような発音です。一方、現代の中国共通語では、「木乃伊」はムナイイのような発音になりますから、当て字としてはちょっと遠いような気もしますが、陶宗儀という人は南方の人だったようですから、あるいは中国南部の方言音では、ぴったりくるのかもしれません。
 この「木乃伊」という表記が、中国からもたらされた書物によって日本に伝わり、そこへやってきたポルトガル人から「ミイラ」という音が伝わって、両者が結びついた結果、「木乃伊」を「ミイラ」と読むことになったのでしょう。

Q0128 「鼻血」はひらがなで書くと「はなぢ」ですが、「地面」は「じめん」となります。どうしてですか?
 「鼻血」の場合、「血」の「ち」という読み方が濁って「ぢ」になっているから、「ぢ」と書くのは当然だ、ということは、ほとんどの方が感覚的に理解していることでしょう。とすると「地」の「チ」という読み方が濁ったのだから、「地面」も「ぢめん」と書くべきではないか、と不思議に思うのは、至極もっともな疑問といえましょう。
 この謎を解くカギは、「チ」という音にあります。これをわざわざカタカナ書きにしておいたのは、ちゃんと意味があります。そう、「地」の「チ」という音は、実は音読みなのです。これは、「地面」の「メン」が「面」の音読みであることからして、ご理解いただけるのではないしょうか。
 漢字の音読みには漢音呉音というものがあることは、あちこちで触れてきましたが、「地」の場合、漢音がチ、呉音がジなのです。つまり、「地面」の「じ」は、「ち」が濁ったものではなく、もともと濁っている読み方なのです。
 現代日本における仮名遣いを定めた文書としては、1986年に内閣告示として出された『現代仮名遣い』があります。この文書の「づ」「ぢ」についての決まりをおおざっぱにまとめると、次のようになります。
「づ」「ぢ」は原則として用いない。
「ちぢむ」のように同音が続いた場合に生じるものは、例外とする。
「はなぢ」のように二つのことばの連合によって生じるものは、例外とする。
「せかいじ(ぢ)ゅう」のように、二つのことばの連合である意識が現在では薄くなっているものは、「づ・ぢ」「ず・じ」のどちらで書いてもよい。
 「地」の呉音「ジ」も、実を言うともともとは「ヂ」と表記される音なのですが、上記の原則には当てはまらないため、「ジ」と書かれることになっている、というわけです。

Q0129 「翔」という漢字を辞典を調べると「ショウ」「かける」の読みしかありません。「とぶ」と読むのは間違いなのでしょうか?
 ある漢字の訓読みが正しいか間違っているかを判定するには、まず第一に、その訓読みで表される日本語の意味を、その漢字が元来持っているのかどうかを検討することから始めます。
 「翔」の場合、「羽」という漢字が含まれていることからも、空を飛ぶ鳥のことに関係する意味を持つ漢字であることは明らかです。また、この字の古い用例を調べると、『論語』に「色みて斯(ここ)に挙がり、翔(かけ)りて後に集まる」(鳥は人の気配を感じると飛び上がり、空をかけめぐった後でまた舞い降りる)という文句があります。さらにそのほかの古い用例なども総合して考えますと、この字は「空を飛び回る」という意味であることがわかります。
 「空を飛び回る」ことを「とぶ」という日本語で表すのは、なんら不思議なことではありません。事実、平安時代の末期に作られたとされる『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』という漢和辞典には、この漢字の訓読みとして「トフ(ブ)」が採用されているのです。以上からすると、この漢字を「とぶ」と読むのは、間違いではないといえるでしょう。
 不思議なのは、この訓読みが現在の辞典にはあまり出てこないという事実です。「かける」という訓読みがかなり一般的に見られることからしますと、「飛び回る」の「回る」の部分の意味を表すためには「とぶ」よりも「かける」の方が訓読みとしてふさわしい、と判断されてきたのかもしれません。しかし、「かける」だと地上を駆ける場合も考えられますから、どっちもどっちだとも思われます。
 むしろ重要なことは、「翔」の字のイメージです。単に「飛ぶ」のではなく「飛び回る」のですから、空中を移動する、自由なイメージがある漢字なのです。この漢字が、最近の赤ちゃんの名付けで人気があるのも、そんなイメージが背景にあるからではないでしょうか。

Q0130 たとえば「北斎」「寛斎」「萬斎」「専斎」のように、名前に「斎」という漢字を付けることがありますが、これはどのような意味なのでしょうか?
 「斎」という漢字には、大きく分けて2つの意味があります。1つは、「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」などというように「ものいみ」、つまり、宗教的な意味合いから心身を清めること、という意味です。もう1つは、「書斎」などというように、部屋という意味です。
 後者の意味でこの漢字が用いられる場合、「~斎」という形で、ある部屋の名前を表す固有名詞となることがあります。そして、その部屋の持ち主のことを「~斎主人」などといい、さらには「主人」を省略して「~斎」だけで、その部屋の持ち主の雅号(ペンネームのようなもの)として使われることもあります。
 浮世絵師の葛飾北斎の場合は、本名は川村鉄蔵とかいうそうですから、明らかに雅号です。また現在活躍中の狂言師・野村萬斎さんの場合も、プロフィールを見ると94年に萬斎を襲名した、とありますから、これも本名とはちょっと違います。このように、「斎」がつく名前は、もともと雅号としてスタートしたのだと思われます。
 しかし、本名で「~斎」という名前がないわけではありません。デザイナーの山本寛斎さんが本名なのかどうかは、ちょっとわかりませんが、明治時代の医者で「日本衛生の父」といわれる長与専斎(ながよせんさい)の場合、事典で調べた限りでは、雅号は別にあって、「専斎」が本名なのではないかと思われます。
 以上からしますと、本名としての「~斎」という名前は、一般的ではありませんが、おかしいわけでもありません。上記のほかにも戦国大名の細川幽斎、画家の富岡鉄斎、剣豪の伊藤一刀斎、儒学者の伊藤仁斎など、「~斎」という雅号を持つ歴史的に著名な人は、分野を問わずよりどりみどりという感じです。それを連想させるぶんだけ、カッコイイという見方もできると思います。ただし、そのかっこよさを周囲が理解してくれるかどうかは別ですが……。

Q0131 「看護シ」のように職業に使われるシという漢字には、「師」と「士」の2つがあるようですが、使い分けがあるのでしょうか?
 2002年3月、それまで「保健婦助産婦看護婦法」という名前だった法律が、改定に伴って「保健師助産師看護師法」という名前に変更になりました。「保健師」「助産師」「看護師」という漢字が公に用いられるようになったのは、おそらくこれが始めてなのではないかと思います。
 ではそれ以前はどうだったかというと、男性は「看護士」、女性は「看護婦」というように使い分けられていたようです。つまり「師」の場合は性別は問わず、「士」の場合には男性のみを指す、ということになります。
 この2つの漢字本来の意味を考えても、この使い分けは正しいと思われます。「師」の方は、もともとは軍隊という意味の漢字で、転じて軍隊の指揮官、さらに転じて指導者一般を表すようになりました。一方、「士」の方は、字源的には男性が持つ武器の形だともいいますし、男性の象徴の形(!)だという説もあります。いずれにしろ、もともと男性を表す漢字であったことに間違いはありません。
 法律が改定されて、「師」が用いられるようになったのは、もちろん男女平等という観点からのことでしょう。それを考えますと「歯科衛生士」は「歯科衛生師」に、「弁護士」は「弁護師」になってもよさそうなものですが、さすがに慣用が定着しているものは変えにくかったのか、それとも「歯科衛生婦」や「弁護婦」ということばはないので問題なし、ということなのでしょうか。
 弁護士の世界は女性には狭き門、というわけではないとは思いますが……。

Q0132 「発足」という語はハッソク・ホッソクの2つの読み方がありますが、いったいいつごろから、どちらも正しいとされてきたのでしょうか?
 異説もあるようですが、「発」をハツと読むのはいわゆる漢音で、ホツと読むのは呉音だとされています。一般に呉音は、仏教関係のことばや、漢音が入ってくる以前に日本語に定着していた古いことばに、よく使われます。しかし、この「発」については、仏教にあまり関係のない「発疹」(ハッシン・ホッシン)、「発作」(ホッサ)などの例もあって、なかなか悩ましい問題です。
 佐藤喜代治『日本の漢語』(角川小辞典28)に、「発動」「発熱」「発作」「発起」「発足」「発端」「発露」の各語についてその読みの歴史的変遷を調べた研究があります。それによりますと、「発」で始まる熟語には仏典で用いられるものが多かったため、古くは呉音のホツで読むのが優勢で、そのせいか、仏典に出てこないことばも呉音で読むことが多かったようです。しかし近世になって、漢音のハツが優勢となりましたたが、現在でも呉音で読むこともある、という流れのようです。
 さて、問題の「いつごろから」ですが、同書によりますと、室町時代の末期にキリシタン宣教師たちが作った『日葡辞書』(にっぽじしょ。日本語とポルトガル語の対訳辞書)には、「発足」にハッソク・ホッソクの両方の読みが記載されています。つまり、今から400年も前にはすでに「ハッソク」という読みが一般的に行われていたことになるのです。問題の根は、かなり深いのです。
 しかし、上に掲げた語のうち、「発動」「発熱」「発露」については、現在ではホツと読むことはほとんどなくなっていることからしますと、これからも長い年月をかけて、ホツからハツへの変化が進んでいくのではないでしょうか。
 

Q0133 子どもが「十回」は正しくはジッカイと読むのだと習ってきたのですが、ジュッカイと読むのは間違いなのでしょうか?
 国語辞典や漢和辞典を調べても「十回」ということばは、残念ながら載っていません。かわりに「十戒」とか「十干」なら載っていますので、それを見てみますと、やはり、ジッカイ・ジッカンを正しいとするものが多いようで、ジュッカイ・ジュッカンも参考として掲げているものもあるにはありますが、今のところ、少数派のようです。
 「十」をジッと読むことには、きちんとした説明があるのですが、そのためにはまず、現在ジュウという音読みを持っている漢字も、昔は何種類かの微妙に違った音読みをされていたという事実を知っておく必要があります。高校生や社会人に向けて編集された漢和辞典には、音読みには旧仮名遣いが併記されています。それを使ってジュウという音読みの漢字をいろいろ調べてみると、ジュウのほかに、旧仮名遣いとしてジウ・ヂウ・ジフがあることがわかるはずです。
 このうち最後の「~フ」という音読みがくせ者で、このタイプの音読みを持つ漢字の後に、カ行・タ行・ハ行などの音読みを持つ漢字がくっついて熟語を作ると、「~フ」が「~ッ」に変化してしまう、という音声上の法則があるのです。
 つまり、「十」の場合、ジュウはもともとジフで、それが変化してジッになるわけです。これをジュッとしてしまうと、ジュウはもともとジュフだということになってしまい、古い発音と合わなくなってしまうのです。これが、多くの辞典がジッカイ・ジッカンなどを正しいとしている理由です。
 しかし、現実問題として、かくいう私も含めまして、ジュッカイ・ジュッカンと発音している人が多いのも事実です。古い発音はともかくとして、現代人にとっては、ジュウからジュッへの変化の方が自然だからです。その事実を無視して、ジュッカイ・ジュッカンを「間違い」だとするのも、いかがなものかと思います。
 とはいえ、ジッカイ・ジッカンにはきちんとした理論的な後ろ盾があります。テストで「十回」の読み方が問題に出たら、ジッカイと答えておくほうが無難です。採点する人がどんな考えの持ち主かはわからないわけですが、こんな簡単な熟語を問題にする人は、ジュッカイに×をつけてやろうと、手ぐすねひいて待ちかまえている人に違いないでしょうから。これも受験戦士の知恵といえましょう。

Q0134 以前、テレビで放送されていたドラマ「トリック」に、「門」がまえに「火」を書く漢字が出てきました。番組では「誰も読み方が分からない、読んでもいけない字。」となっていましたが、いったいどういう字なのですか?
 このご質問、たくさんいただきました。さすがに高視聴率ドラマだけはありますね。私は、「トリック」は第1シリーズからのファンであるにもかかわらず、この回は見逃してしまったのです! 全く!!
 というわけで、どういう流れでこの漢字が出てきたのかはわからないのですが、あの凝ったドラマのことですから、見つけるのはたいへんかな、と思いながら探してみると、意外とあっさりと見つかりました。ちゃんと『大漢和辞典』に出ているのです。たまには『大漢和』の本文をお目にかけるのもよろしいかと思いまして、証拠代わりに図に掲げておきました。
 この漢字、音読みはリン、意味は「火のさま」とあります。『説文解字』にも出ているとありますから、かなり古くからある漢字です。しかし、用例もないようですからどんな「火のさま」なのかは、わかりません。リンと読んで火に関係する漢字といえば、「燐」があります。「燐」はもともと鬼火を表す漢字ですから、「門」がまえに「火」の漢字も、同じような火を表すのかもしれません。もっとも、これは全くの当て推量です。
 ところで私が気になるのは、どうして「トリック」では「誰も読み方が分からない」とされていたのか、ということです。ドラマ製作の人たちは、この漢字があるかないかくらい、調べたはずです。『大漢和』を調べなかった、ということも、もちろん考えられますが、「トリック」ファンとして、また『大漢和』発売元の社員として、そんなことはあんまり考えたくはありません。
 むしろ、私が推測するのは、『大漢和』を調べたけれど、この漢字を見つけられなかったのではないか、ということです。というのも、この漢字、部首は「門」ではないのです。火に関係する漢字ですから、部首は「火」なのです。つまり、「門」がまえの4画のところを探しても、この漢字は見つからず、「火」の8画のところを探さなくてはならないのです。
 漢和辞典には、このようにちょっとトリッキーなところがあります。そこで、この推測が当たっているとすると、「トリック」の製作者の方々は漢和辞典のトリックに引っかかった、と言えるのではないか、などと考えてしまうのですが……。

 (注)その後、読者の方から、この字は日本では「門のところでたく迎え火」の意味で用いられることがある、というご指摘をいただきました。

Q0135 パソコンで「おなか」と入力して変換すると「お腹」と出てきますが、これは正しいのですか?
 「腹」を意味する「おなか」ということばは、もともと、室町時代に女性たちの間で使われていたことばだとされています。単純に考えると、もうかれこれ400年以上は使われていることばだということになります。
 ところで、漢字の訓読みというのは、もともとその漢字の古典中国語としての意味を、日本語で翻訳しようとしたところから生まれています。そこで、「腹」が意味するところを日本語の「おなか」で翻訳できるとすれば、「お腹」という表記が生まれてくるのはごくごく自然なことだと思われます。事実、小学館の『日本国語大辞典』を調べますと、「お腹」という表記も、江戸時代から用例があって、長い間使われてきているようです。
 現在、一般の社会生活で漢字表記の「めやす」とされているのは、文部省定めるところの『常用漢字表』ですが、これには、「腹」に対して「なか」という訓読みは記されていません。そこで、国語辞典でも、「お腹」は載っていないことがあります。しかし、歴史のある表記ですし、ちょっと大きめの国語辞典だとちゃんと載っていることも多くあります。『常用漢字表』はあくまで「めやす」ですから、「お腹」という表記も正しいとして差し支えないと思います。

Q0136 英語のことわざに、Keep a green bough in your heart, and the singing bird will come. というものがありますが、出典は「古い中国のことわざ」だそうです。漢文ではどういう文句なのでしょうか?
 ヨーロッパで「中国のことわざ」とされているものを眺めてみると、私たちが知っているものとはだいぶ違うものがたくさんあります。特に起源の古いものは、伝わっていくうちにその姿を変えるでしょうし、ヨーロッパ風に翻案されていくこともあるのでしょう。
 ご質問のことわざは、直訳すれば「心の中に緑の枝(bough)を茂らせれば、やがて鳥たちがやってきて歌い始めるでしょう」とでもなるでしょうか。しかし、このことわざも、ふつうにみかける中国の名言辞典などを調べても、ぴったりくるものは見あたりません。しかし、インターネットで英語のページを調べてみると、1つだけ、出典は Lao-tzu だ、としているものがありました。これはおそらく『老子』でしょう。
 これを手がかりにいろいろと調べてみたのですが、『老子』には似たような文句はないようです。その代わり、老子学派(道家)の影響が強いとされる『淮南子』(えなんじ。紀元前2世紀ごろ)という書物の中に、「樹木盛んなれば則(すなわ)ち飛鳥(ひちょう)之(これ)に帰す」という文句を見つけました。これが、かなり近いのではないでしょうか。
 原典では、まず「泉の水が深ければ魚たちはそこに集まる」とあって、そのあとにこの「木が茂れば鳥たちはそこに集まる」が続きます。そしてさらに、「草が茂れば動物たちはそこに集まる」と続いたあと、「君主が賢ければ豪傑たちはそこに集まる」となって、いかにも中国らしく、政治家としての心得を説いて終わります。singing bird が豪傑たちになってしまうのは、ちょっと幻滅ですね。
 もしこの文句が Keep a green bough ~ のもとになったのだとすると、ヨーロッパと中国の風土の違いが感じ取れるような気がするのですが、いかがでしょうか。

Q0137 「かぜ」は漢字では「風邪」と書きますが、どうしてこう書くようになったのですか?
 もちろんこれは当て字なのですが、当て字に関して「どうして」と聞かれてしまうと、ちょっとお答えに困ることがあります。
 鈴木棠三編『日常語語源辞典』(東京堂出版)によりますと、「かぜ」という日本語の語源は、もともと「か」は気、「ぜ」は風を意味することばだとされているそうです。空気が動くことを「かぜ」と言ったのを、それを通じて伝染する病気にも転用した、というわけです。
 一方、「風邪」と書いてフウジャと読む漢字熟語はれっきとした古典中国語で、『大漢和辞典』にもちゃんと出ています。紀元1~2世紀の統一王朝・後漢の歴史を記した『後漢書』という書物には、庭園や離宮に出かけるのを好んだ明帝という皇帝を、賢妻として名高い馬皇后が「風邪露霧を以て戒め」た、という記述があります。漢文の素養がイマイチなもので、これを解釈するのは勘弁していただきますが、『大漢和』ではこれを引用して、「風邪」に「かぜひき」という意味を当てていますから、古代の中国でも「風邪」は、現代日本と同じような意味を表していたのでしょう。
 この「風邪」という中国語が日本に入ってきたとき、同じ意味を表す「かぜ」という日本語でそれを理解した、というのが、「風邪」を「かぜ」と読むようになった始まりなのではないかと思われます。つまり、「風」「邪」という漢字1字1字が持っている音や意味と、「かぜ」という読みの間には、あまり関係がないということになります。
 なんとなくナットクいかない感じもするのですが、これが当て字の当て字たるゆえん、ともいえそうです。

Q0138 中国で現在使われている「簡体字」に対して、「繁体字」ということばがありますが、これと「正字」とはどう違うのですか?
 現在、主に中国大陸で使われている、漢字の簡略化された字体のことを「簡体字」といいます。これは、1964年に中華人民共和国で公布された『簡化字総表』で定められ、正式に用いられているものです。この表の名前からすると、正式には「簡化字」という名称が正しいようですが、日本では一般に「簡体字」ということばが通用しているようです。
 さて、簡略化された、ということはもともと複雑なものがあったわけで、その元になった字体のことを、「繁体字」といいます。「繁」は、「繁雑」などの熟語からわかるように、ややこしい、という意味で、「簡」の対になる漢字です。つまり、「繁体字」はあくまで、「簡体字」と対になる概念なのです。一般的には、台湾や、返還前の香港など、『簡化字総表』の影響力の及ばない場所で用いられている字体のことを、「繁体字」と呼ぶことが多いようです。
 一方、「正字」というのは、もちろん「正しい漢字」のことです。しかし、Q0073でも触れたように、「正字」という概念は時代や場所によって変化する可能性があります。そこで、「繁体字」と「正字」の関係も、時代や場所によって異なることになります。つまり、『簡化字総表』の影響が及ぶ範囲では、「簡体字」が「正しい漢字」ですから、「繁体字」は「正字」ではありえません。しかし、この表とは関係のない日本人から見ると、むしろ「繁体字」の方が「正字」のように見えるのです。
 日本人から見た場合に限っても、問題は簡単ではありません。たとえば日本で「正しい漢字」として用いられている「鑑」という字は、「簡体字」では図のようになります。ところが、これに対応する「繁体字」は明らかに「鑒」ですから、日本人にとっての「正字」とは違うのです。
 このような状況ですので、「繁体字」は「簡体字」の対の概念、「正字」はある時代や地域で「正しい」とされる漢字、というふうに全く別物として理解しておくのがよいと思います。

Q0139 「日付」を「日付け」と書くのは、間違いなのですか?
 このご質問は、基本的にはQ0080にあった「受付」「受け付け」と全く同じです。詳しくはそちらを見ていただくとして、送り仮名については文部省(現・文部科学省)が定めた決まりがあって、それに従うと、慣用に従って「日付」と書くのが「正しい」、ということになります。国語辞典などを見ても「日付」しか載っていないのは、ここに理由があります。
 それにしても、送り仮名の付け方はややこしいですよね。私も正直、迷うことや間違うことが多くあります。「日付」と同様の例で迷うことが多いものを挙げてみると、「取締役」「書留」「割引」「手当」「置物」「立場」「受取」などがあります。やや特殊なケースですが、他にも「売上金」「取扱所」「乗換駅」などもあります。これらは全て、慣用に従って送り仮名を付けないのが「正しい」ということになっているのです。
 でも、こういった例外的なものを除けば、大原則としては、次のようになるんだろう、と思います。
1 活用のある語は、活用語尾から送る。
2 活用のない語は、送り仮名を付けない。
3 派生語・複合語は、元の語の付け方に従う。
 これだけであれば簡単なはずなんですが、そこに「行う」を「行なう」、「申し込む」を「申込む」と書いてもよい、という「許容」や、「受け付け」でなく「受付」、「日付け」でなく「日付」と書く、という「慣用」が入ってくるので、ややこしくなるのです。とても全ては覚えきれません。
 しかし、「日付け」と書いたからといって、罰金を払わなければいけないというわけではありません。漢字はとどのつまりコミュニケーションの道具ですから、要は、相手にわかるように書けばよいのです。
 それくらいの軽い気持ちになって、あとは上の3つの法則だけ頭にいれておく、というのが、現実的なのではないかと思います。もちろん、フォーマルな場合には、辞書を引くことを忘れずに、ですが。

Q0140 「竰」(センチリットル)や「糎」(センチメートル)のように、外国語をそのまま表す漢字には、どのようなものがあるのでしょうか?
 ご想像がつくかとは思いますが、この種の漢字は、単位を表すものに多いのです。成り立ちとしては、「竰」の場合、「立」がリットルの当て字で、「厘」は100分の1、両者併せてセンチリットルを表します。「糎」の場合は、「米」がメートルの当て字ですから、センチメートルになるわけなのです。
 そうすると、同工異曲に考えれば、さまざまな単位を表すことができそうです。Q0057でご説明したように、10分の1を表すデシには「分」を、1000分の1を表すミリには「毛」を使えばいいわけですし、10倍を表すデカは「十」で、100倍のヘクトは「百」、1000倍のキロは「千」を使えばよいのです。重さの単位グラムは「瓦」をあて字として用いますので、これらを組み合わせれば、実にさまざまな漢字ができてくることになります。
 以上の組み合わせででき上がる漢字は、全て、日本で独自に作られた国字だとされています。中国ではまた別個の単位の表し方があるのですが、それらを見ていくと、「公里」がキロメートル、「公斤」がキログラムなど、2文字で表すことが多いようです。おもしろいのは、メートルは日本と同じく「米」で表すのですが、センチメートルは「厘米」と2文字にして表すことです。これは「糎」と従兄弟同士の関係にあると言ってもよいでしょう。
 1文字で単位を表す漢字で、中国で作られたとされるものとしては、ヤード・ポンド法のインチを表す「吋」、フィートを表す「呎」、ヤードを表す「碼」、ポンドを表す「磅」「听」などがあります。

Q0141 先日、「目」と書いて「さがん」と読む名字の方と出会ったのですが、どうしてこのような読みが生じたのでしょうか?
 名字の読み方は非常にむずかしくて、なかなかはっきりとしたことが答えられないのです。そこで、以下は私の当て推量だと思ってお読みください。
 いきなり話は古代の日本に飛びます。昔の日本は、武蔵の国、相模の国などというように「国」に分かれていましたが、古代においては、その国の政治を行うお役人のことを、「国司」(こくし)といいました。この国司には、おおざっぱに言って4つのランクがあって、そのランクの名前は、上から順に「守」「介」「掾」「目」と書かれていたのです。
 一番上の「守」は「まもる」という意味ですし、「介」は「たすける」、「掾」も「たすける」という意味ですから、それぞれ、えらいお役人の官職名としてふさわしいと思われます。では、一番下っ端の「目」はどういう意味かというと、この字には、「頭目」などという熟語で使われるように、「人の上に立つ者」という意味があるのです。
 さて、この「守」「介」「掾」「目」を、当時、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と読んでいたのです。なぜこう読むのかについてはいろいろあるのでしょうが、ともかく、日本史ではこれを「四等官(しとうかん)の制」などと言っているようです。おそらく「目」と書いて「さがん」と読むのは、この「さかん」が変化したものではないでしょうか。
 たしかに、「目」1文字だけで「さがん」と読む、と言われると、ちょっとびっくりするでしょう。しかし、その背景には、古代から続く長い長いいわれがあるのだろうと思われます。

Q0142 「人」と「為」をくっつけたら「偽」になるから、「人の為」なんていったって、それはニセモノなんだ、という話を聞いたことがありますが、本当にそうなんですか?
 「為」という字は、実にいろいろな意味を持っている漢字で、仕事で漢文を読まなければならないことがあったりしたとき、この字に出会うと、ちょっとイヤになるくらいです。しかし、私のような妙な職業に就いている人でなければ、この字を見てすぐに思い浮かぶのは、「ため」という意味でしょう。そういう方々をまったくもってうらやましく思う今日このごろであります。
 それは置いておくとしまして、この漢字の一番基本的な意味は、「する」とか「つくる」という意味なのです。そこで、「偽」という字は、「人のため」という意味ではなくて、もともとは「人がする、人がつくる」という意味だということになります。つまり、本来は「自然のままではなく、人間の手が加わったもの」を表していたものが、やがて模造品、ニセモノの意味へと変化していったというわけです。
 さて、以上に基づいてご質問を言い換えますと、「人」と「する」をくっつけたら「偽」になるから、「人がする」なんていったって、それはニセモノなんだ、となります。これは、意味がないわけではありませんが、ほとんどナンセンスに近い文ですよね。
 というわけで、「人の為」にする行いは、所詮ツクリモノだ、なんてことは、漢字の世界では嘘っぱちです。安心して、世のため人のため、日々精進していっていただきたいと思います。

Q0143 「企」という漢字は、人が足で起立している形だと辞典に書いてあったのですが、これがどうして「くわだてる」という意味になるのでしょうか?
 「企」という漢字は、「人」と「止」からできています。そして、「止」というのは、もともと人間の足の形を表した漢字ですので、おっしゃるとおり、「企」は、人が足で立っている姿を表したものだ、と言われています。ただ、その立ち方についてはいくつか説があるようで、足を伸ばして立つのだとか、つま先立ちで立つのだとか、言われているようです。
 問題は、立って何をするのか、ということです。この点に関しては、ありがたいことに諸説が一致しているようで、足を伸ばそうが、つま先立ちだろうが、遠くを見ようとしているのだ、というのです。つまり、背伸びをしていると考えればよさそうです。
 人間、遠くを見ていると、いろいろなことを考えるものです。中国古代の人々は、遠くを見ながら、「いっちょ、なんかしてやろう」と思ったようです。そういうわけで、「企」という字が、「くわだてる」という意味になったのだと、説明されています。こういうふうに、元になる2つの漢字の意味を組み合わせて、新しい意味を持つ漢字を生み出すことを、会意(かいい)と言います。
 まったく、昔の人は見上げたもので、私のように、景色がきれいだなあ、としか思わないのは、小人物のようです。考えてみれば、「企業」も「企画」も、小人物ではなかなかうまくやっていけないものですよね。

Q0144 私の名前に使われている「龍」の字は、右下の部分が「三」ではなく「テ」の形をしています。この字をパソコンで表示する方法はありませんか?
 この字はいわゆる「龍」の異体字で、姓名や、飲食店の名前によく見られます。写真は、私が学生時代によく行っていた、池袋にある居酒屋さんの看板ですが、ラーメン屋さんなどでも、この字を使っているお店を、けっこうよく見かけます。
 さて、この字は、JIS漢字やユニコードには収録されていませんから、パソコンで表示するには、外字ソフトを使うのがよいと思います。現在では、人名によく使われる外字を集めたパッケージもいくつか発売されていますから、それらを利用するのが便利でしょう。Q0071でもご紹介した、イースト株式会社の「人名漢字1500」のほか、NECの「Font Avenue 外字パック」にも人名に使われる外字が650字入っていますし、ダイナコムウェア株式会社の「Dyna Font 人名外字」は1880字を収録しています。これらのパッケージを確認したところ、問題の異体字はいずれにも収録されていました。
 ただし、この「龍」の異体字、さらに微妙な違いがあるようで、問題の部分が「テ」ではなく「〒」になっているものや、さらに「二」と「丨」が離れているものなどがあるようです。上に挙げた外字のパッケージでも、それぞれ微妙に違うようです。こだわるなら、徹底的にこだわった方がいいです。お買い求めになる際には、くれぐれもご注意を!

Q0145 小学校で学習する漢字は、1年生でも「草」のように比較的複雑な字がある一方で、六年生でも「仁」のような平易な漢字が出てきます。この配当はいったいどのような基準で決まっているのでしょうか?
 小学校で学習するように指導要領で定められている漢字のことを教育漢字といいますが、これはもともと、1947(昭和22)年に制定された「当用漢字別表」で定められたものです。この「別表」には、義務教育段階で学習すべき漢字として881字が掲載されていましたが、この段階では、それぞれの漢字を何年生で学習すべきかについては、特に定めはありませんでした。
 しかし、それでは教育上なにかと具合が悪いということから、学年配当についての議論がなされ、1958(昭和33)年の学習指導要領の改定の際に、「学年別漢字配当表」が制定されるに至ります。その間、文部省内にも「漢字指導研究会」が設けられて研究をしたほか、実験校に依頼して調査を行うなどなされたようです。その結果として、ものの本によれば、学年配当の基準となったのは、次の4項目を基準だそうです。
 社会的に使用度の高いものは先に出す。
 児童の生活に関係の深いものは先に出す。
 字画が基本的なものは先に出す。
 覚えやすいものは先に出す。
 この基準からすると、「草」は「仁」よりも児童の生活に関係が深いので、より低い学年に配当されているのだろうと思われます。
 この後、教育漢字の学年配当にはいくつかの変更が加えられ、教育漢字そのものも現在では1006字にまで増えています。現在の学年別配当を眺めていると、だいたい、上記の4項目のうち、番号の若い順に優先順位をつけて配当を決めている、と理解すればよいのではないでしょうか。

Q0146 カタカナの「ネ」(しめすへん)に「豊」と書いてレイと読む漢字がありますが、パソコンではどのようにすれば表示できますか?
 この漢字は、常用漢字では「礼」という字体で表現される漢字で、いわゆる旧字体では、「禮」となります。この字体の「示」の部分が、手書きの場合に崩されて、カタカナの「ネ」のようになったのが、問題の漢字ということになります。
 従って、この字体は常用漢字の新字体でもなければ、旧字体でもなく、いわばその中間のような存在ということになります。どっちつかずといえばどっちつかずですが、またそこが愛らしいといえば愛らしい漢字です。
 この漢字は、その性格ゆえにJIS漢字やユニコードには収録されていないのですが、そんなに珍しい漢字というわけでもなく、写真のような街中の看板や、人名などで見かけることがあります。
 この漢字をパソコンで扱うには、Q0144でもご紹介したような、外字のパッケージをご利用になってみるのがよいかと思います。Q0144でご紹介したパッケージのうち、イースト株式会社の「人名漢字1500」、ダイナコムウェア株式会社の「Dyna Font 人名外字」には、問題の漢字が収録されているようです。
 このような、JIS漢字やユニコードに収録されていない漢字を表示するその他の方法としては、「今昔文字鏡」や「超漢字」といったソフトウェアを使うことも考えられます。ここでは詳しくは紹介しませんが、ご興味のある方は、インターネットで検索してみてはいかがでしょうか。

Q0147 「札」という漢字は、どうして「木」と「乙」で「ふだ」という意味になるのですか?
 この漢字の右側の部分は、おっしゃる通り、「乙」が変形したものだと言われています。しかし、ではこの部分が何を表すのかということになりますと、定説がないようです。
 何冊かの漢和辞典を調べてみたところを列挙してみますと、この部分は彫刻刀の形で、彫刻刀で削り取った小さな木が「ふだ」なのだ、というのが1つ。そうではなくて、もともとこの部分が「ふだ」の象形で、木であることをはっきりさせるため、後に「木へん」がついたという説もあります。また、この部分はピンのようなものを表す漢字で、ピンで止める木片という意味から「ふだ」という意味になったのだ、という説もありました。
 いつも同じことを申し上げるようで恐縮なのですが、このように、漢字の字源にはいろいろな説が並び立っていることが多いのです。特に、シンプルな字形をしているほど、字源もいろいろあることが多いようです。数千字から1万字程度を収録した漢和辞典であれば、たいてい、各漢字について、字源に関する解説を載せています。字源に興味がある方は、その部分を拾い読みしたり、比較してみたりすると、おもしろいと思いますよ。
 もっとも、「札」の右側の部分が「乙」の変形であることをご存知だった質問者の方には、釈迦に説法だったかもしれませんが……。

Q0148 「病葉」と書いて「わくらば」と読むそうですが、「病」に「わくら」という読み方があるのですか?
 小社『明鏡国語辞典』を引きますと、「わくらば」とは、「病気や害虫にむしばまれて変色した葉。特に、夏の青葉にまじって赤や黄に変色している葉」と出ています。この意味と「病葉」という漢字とは、いかにもぴったりしていますから、「病」に「わくら」という読み方がありそうな気がするのも、ごもっともなことであります。
 しかし、このことばは、そう単純な生まれ育ちではないようです。いつもお世話になる小学館さんの『日本国語大辞典』を調べてみると、このことばは室町時代からあったようです。しかし、その語源については、「わ」は若い、「くら」は食らうの意味だとか、もともと「分ける葉」だとか、いくつか説があるようで、はっきりしないのです。つまり、「わくら」とは何かは、はっきりわからないのです。
 したがって、「病」に「わくら」という読みがあると考えるよりは、「病葉」の2文字で「わくらば」と読む熟字訓のようなものである、と理解しておいた方が、よいのではないかと思われます。
 ちなみに、ややこしいことに「わくらば」と読む熟語は他にもあります。それは「邂逅」という熟語で、ふつうに読めばカイゴウあるいはカイコウですが、この2字で「わくらば」と読むこともあるのです。ただし、その場合は「病気の葉」という意味とは全く違って、偶然に出会う、というような意味になります。こちらはなんと『万葉集』に用例がある古いことばですが、やはり、語源については定説がないようです。

Q0149 小学校5年生の教科書に「熟字訓」が出てくるのですが、「当て字」と「熟字訓」とは、どう違うのですか?
 本来の漢字の用い方からははずれた用い方をすることを、一般に「当て字」と呼んでいます。漢字はもともと中国語を書き表すために作られた文字ですから、その点からすると、漢字を使って日本語を書き表すこと全体が「当て字」だという人もいます。
 しかし、そういった議論は置いておいて、現代日本語の世界で考えたときには、「当て字」には大きく分けて以下の2種類があるのではないかと思います。
 「滅茶苦茶」(めちゃくちゃ)、「倫敦」(ロンドン)などのように、漢字の本来の意味とは関係なく、ある漢字を用いるもの。
 「女」と書いて「ひと」と読ませたり、「運命」と書いて「さだめ」と読ませたりするように、漢字の本来の意味は残しつつ、一般にはあまり用いられない読み方で、ある漢字を用いるもの。
 さて、一方の「熟字訓」は、本来、「熟字(=熟語)に対する訓読み」のことです。訓読みとは、中国語としての漢字の意味を日本語で翻訳したものですが、同じ作業を熟語に対して行ったものなのです。結果として、漢字2字以上からなる熟語に対して、日本語1語を当てたものが熟字訓であるということになります。
 先に挙げた2の「当て字」のうち、漢字2文字以上から成っているものは、この「熟字訓」ときわめて似た外見をしています。それらのうち、時代とともに認知されていって、比較的多くの人に用いられるようになったものが「熟字訓」だと考えてよいでしょう。
 「五月雨」と書いて「さみだれ」と読むのは、元来は「五月の雨」という意味から来た当て字ですが、それが一般性を獲得したとき、「熟字訓」と呼ばれるようになるのです。中でも、一般性が高いと公的に認められているのは、『常用漢字表』の「付表」に挙げられた熟字訓で、これらは「付表の語」などと呼ばれて、国語辞典でも別格扱いをされています。
 そこから考えますと、「運命」と書いて「さだめ」と読む、などというのは、演歌にしょっちゅう出てきますから、すでに「熟字訓」としての地位を確立しているのかもしれません。そして、何十年か先のいつか『常用漢字表』が改定されるとき、演歌出身の「付表の語」が採用される、なんてことも……。やっぱり、ありえませんかねえ。

Q0150 「しんにょう」を書くとき、2画目は真っ直ぐ下へ降ろして書くのですか、それともひらがなの「て」のように曲線にして書くのですか?
 お悩みなのは、図のような2種類の「しんにょう」の形についてなのだろうと存じます。そして、結論から申し上げると、真っ直ぐなのは活字体、にょろにょろしているのは筆記体、ということになります。
 Q0019Q0029Q0118など、これまでにも何回か、漢字にも活字特有の形と筆記特有の形の違いがあることをご説明したことがあります。「しんにょう」の場合もその例なのです。「しんにょう」はそもそも、図のような字がくずれて出来たものなのですが、くずし字の本性として、直線的であるよりは曲線的になりがちです。つまり、「しんにょう」はその発生時から、にょろにょろしていたはずなのです。
 ところが、やがて印刷技術が発達してくると、このにょろにょろした形はちょっと厄介ものになります。木版に彫るにせよ、金属活字の母型を彫るにせよ、曲線よりも直線の方が、彫りやすいからです。そこで、印刷物に表れる「しんにょう」は、直線的なものへと変化していったのだと思われます。
 そのような事情ですから、手書きで書く場合には、にょろにょろ方式で書く方が由緒正しいといえますし、見た目も美しく仕上がります。しかし、だからといって、印刷物に表れる直線的な「しんにょう」が、間違っているわけではないのです。
 アルファベットと同様、漢字にも活字体と筆記体の違いがあるということを、是非とも理解していただければ、と思います。


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