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第二公用語論について

萩谷:日本と韓国は、実際使われていない言語を公用語にしようというきわめてユニークな国であるということですが、韓国の状況はいかがでしょうか。
イ:1940年~45年の間、韓国の国語は日本語でした。国語としての近代的な朝鮮語が成立する以前に、日本語がその上にかぶさってしまったので、日本語は長い間抑圧の言語としての役割を果たしました。1945年に日本の植民地支配が終わった後、アメリカが入ってきた。英語は多くの韓国人に「解放の言語」として迎えられました。そして南北の政治的な混乱を経て、民主化の中でだんだん反米の機運が高まってくると、今度はアメリカは警戒の対象となり、英語もその象徴として考えられるようになった。日本と西洋からの脱却、というなかから、必然的に民族主義が高まってきます。この50年間は韓国ナショナリズム台頭の期間でした。そこには歪んだ形に成長したものもあったわけです。これに対して数年前に、ある作家が「韓国の硬直したナショナリズムをぶち壊すために、21世紀は地球上に韓国語は絶滅するから、英語に全部変えてしまった方がいい」という過激な発言をし、議論が喧しくたたかわされました。韓国においては、英語はそんな非常にアンバランスな二つの感情――「解放する言語」と「反抗したい言語」――の間に位置します。
萩谷:その一方で、韓国では日本よりもアメリカに留学して学ぶ人が多いですね。
イ:韓国でもたくさんの人が留学していて、日本で言う団塊世代より下の人の行き先は、ほとんどアメリカです。日本と似ている。韓国の英語教育のあり方、英語に対する呪縛というのは、日本にそっくりです。だから、公用語論の出方も非常によく似ているんだと思います。
鳥飼:逆に加藤周一さんは、「日本人は言葉に誇りを持っていない」とおっしゃっています。日本人が拠りどころにするのは決して話し言葉ではない。日本人が自分たちのナショナリズムの拠りどころとして、言葉をきちんととらえるようになったときに、初めて日本人は多文化の中で生きていけるのではないかと指摘をなさっていて、私はこのあたりが英語教育の中で最も大きな部分だろうと思います。
萩谷:「英語は既に事実として公用語になっている」という指摘がありましたが、この場合の公用語の意味と実態をご説明いただけますか。
橋爪:公用語の定義は、考え方がいろいろあって難しいんです。日本と韓国は公用語論の出方が特別であるというお話がありましたが、日本と韓国には、千年以上中国語を公用語として使っていた共通点があります。英語公用語論が両国で出てくるというのは、なにか歴史的な必然性があるかもしれないと思いました。ここでいう「公用語」は、公文書を中国語で書くということで、「役所が使う公用語」ですね。英語をこういう目的で公用語にしなくてはいけないという主張は、現在あまりないと思います。
 大学の事情で申しますと、まず会話、意思疎通のための手段。次に、論文を書く際の英語。自分の活動や業績の、一番正確な形を世界の人に伝えるときに、英語で印刷発表したり、インターネットに乗せたりする。これは世界中のルールで、英語になっていれば、ほかの言語ができなくても、世界中の情報が手に入る。お返しに、私たちも自分たちの活動を英語にする。これが大学における公用語の意味です。
 外国語を学ぶことは、可能性を拡大できる非常に楽しいことだと思います。私は言語を一つ学ぶと人格が一つ増える気がします。英語で考えているときと日本語で考えているときは、少し違った私になる。外国語を習うことは自分の言葉を捨てるわけではなく、双方刺激し合って日本語も英語も鍛えられるという、相乗効果がある。昔、中国語と接触したことで日本語がよりよいシステムになったような効果が期待できると私は思っています。
鳥飼:公用語とは、まずは「official language」ですね。しかし今問題にしている第二公用語論はその観点ではなく「working language」、つまり英語が事実上、国際的な共通語であるから、日本語の次には英語ができたほうがいいですよ、という意味だと解釈します。
 この議論をするときには、賛成・反対、いい・悪いにかかわらず、国際的に英語が便利な言語として使われているからできた方がいいという前提で私はまず考えます。二つ考え方があると思うのですが、一つは、日本人の言語コミュニケーション能力を総合的にとらえ、鈴木先生がおっしゃった「日本人の国際化」と「国際語としての英語」を両輪にして考えなければいけない。加えて翻訳、通訳の重要性をも考えていくべきだと思います。
 もう一つは、英語は重要だから第二公用語とするという前提で考えた場合、本当に誰もが同程度に必要か、ということです。どうしても必要とする層に対しては大学で徹底的にやる。そのかわり、大方の人はそこまで必要ないのだから、高校卒業までで中学英語を完全にマスターする。中学英語がモノになっていれば日常生活に不自由しません。もし公用語論を言うのなら、ここまで考えるべきだと思います。
萩谷:アメリカなどで戦争中、日本語を非常に勉強したように、戦略目的を設定して外国語と接していく、どうなんでしょうか。
フィールズ:そもそも言葉に優先順位をつけるのは、「日本はビジネスしかないんだ」と言っているようなものです。フランス語、ドイツ語、アラブ語、中国語、文化はたくさんある。それを何で第二次公用語というのか。第二次公用語はビジネスでの優先言語とはっきりするべきだと思います。
萩谷:イ先生、韓国の目から見て、日本の公用語論についての御感想は。
イ:まず韓国で公用語論というと、先ほどふれたやや歪んだ民族主義への反省から来ているのが一つ。もう一つは、現在韓国からの移民が100万人くらいアメリカに住んでいることです。現在も毎年、1万から2万の人がアメリカに行きます。5000万の韓国人口のうちの100万ですから、親戚の誰かがアメリカに住んでいるということになって、日本よりは生活の中で英語を必要としていると考えられる。
 日本の公用語論ですが、『二十一世紀の日本の構想』を分析してみると、「英語を国民の実用語とすることに全力を尽くす。これは日本の戦略課題である」というのが非常に気になる。鈴木先生が「国力、これはすばらしい考え方だ」とおっしゃいましたが、私はちょっと心配になるんです。やはり言葉は闘うためのものではなく、共存のためのものであるということが、まず私の考え方なのです。
 第二公用語に積極的な朝日新聞の船橋洋一さんは「多言語主義に基づく言語政策は日本語を守っていくことである」と明言されています。それも一理ありますが、さらに、「日本が将来、移民国家になると、日本語を公用語として位置づける必要が出てくるかもしれない」そのうえで「第二公用語を英語とする」としています。
 しかし英語を母語にしている人が将来日本に移民してくるかというと、現状からみて違うだろう。そうすると、英語をnativeとしない人が日本に移住してきたとき、「日本の社会」と「英語」という二つの車輪の中で、より一層彼らを排除するような危険性がある。ということで、私は第二公用語論には若干反対の立場です。
 もう一つは、英語が世界に広まったのはそんなに古いことではなく、第二世界大戦の後なんです。イギリスのロボット・ピリクソンは「英語は便利なのではない。世界に自然に広まったように見えるがそうではなく、アメリカの政治力・軍事力の強大化と並行して広まっていった。我々が言葉に拠って生きている人間である限り、極力言語的な不平等は解消した方がいいのだ」と。私はその立場を選択します。この立場からしますと、英語が広まることは言語的な不平等をより助長する結果になるので、そういう根拠においても私は日本における英語の第二公用語論にはあまり賛成できません。
萩谷:エスペラントは一つの言語による帝国主義的な支配というものとは対極にあるものなんですが、結局浸透しなかった。英語を母語としない同士が出会ったときに、今は英語を使っているわけですね。でもイ先生のお話ですと英語帝国主義的なバックグラウンドもある。そのあたり、どのように調和させていったらいいんでしょうか。
鈴木:実は人間の言語には二つの非常に違った性質の言語活動がある。一つは、言語を使う人間が死に絶えても、その言語が扱う問題があり続けるもの。天文の運行、数学の定理、そういう自然科学的な言語は、文化や歴史・時間・空間・固有名詞がないから、世界中の言語に翻訳できる。ですからユニバーサルな言語をつくる方がエネルギーのロスが少ないという意味で、世界語をつくろうと自然科学者が言うわけです。エスペラント語を考案したザメンホフも医者でした。
 片や、人間があってその学問なり言葉の実態がある、人間が死ねば問題そのものがなくなってしまう事柄にまつわる言葉は、世界共通にできない。したら面白くないし、膨大なエネルギーがかかる。
 戦後の日本は、環境をアメリカ的にし、考え方もどんどんアメリカ化していった。同様に、英語を日本の第二公用語にすると、英語の影響で日本語が駄目になるだろうと私は思います。というのは、今、世界6000言語があって、年間で何十、何百と言語が滅んでいるんです。強い言語と接触すると、弱い言語は滅びる。日本語も非常にもろい言語なんです。
 「二十一世紀日本の構想」を見ますと、「英語が事実上、世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れるほかはない」「第二公用語にしないまでも、第二の実用語の位置を加えて」「日常的に併用すべき」「国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語で行うも当然のたしなみとすべきである」。これは皆さんが考えられている第二公用語論とは大分違う。
 心配なのは、これを受けて文部省が小学校から英語を始めて国語をやめた場合です。日本語を破壊しておいて、英語が粗大ごみになったときに困る。日本語の時間を減らし、家庭内の会話を減らし、インターネットでピッピッとやる。そうしてできあがった会話のない人間が、英語になると急に演説ができるわけがない。
萩谷:「公用語論」をよく解釈すれば、何かを進めていこうとするときの刺激剤となる。ただし、これを間違えて使うと、やはりいろいろな弊害がある。ですから、公用語論に反対か、賛成かという議論の設定の仕方をするのではなく、これをきっかけにそれぞれの方がそれぞれに考えていただきたいと思います。

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